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文弱日記

文学とサブカルとお役所生活

自己紹介 その1(文才なきゆえの悲劇)

自己紹介

 例えばだ。

 『ちょっと昼食あとに仮眠をとり、夕暮れどき、オレンジ色の斜陽が長く伸び、遠くで響く鐘の音なんかがボーンボーンと聞こえてくる。そんな時分に起きたときは急激なさみしさに襲われて、この瞬間だけは誰かそばにいてくれたらどんなに心強いだろう、なんて思ったりする。』

という書き込みがあったとしよう。 これが仮に、寅さんが家族宛てに書いた手紙の言葉だったとする。

 ー 映画「男はつらいよ」における車寅次郎はフーテンの行商人だ。セミが泣く季節には北へ行き、冬になったら渡り鳥とともに南へ行く。そんな宿無し根無し草の寅さんは、商売道具片手に全国津々浦々を年中放浪する。

場所はそう、九州は福岡県。 絢爛豪華、勇壮華麗な曳山が、笛や太鼓の囃子に合わせ、旧城下町の唐津市内を練り歩く。そんな佐賀県の秋の風物詩、唐津くんちの後日。露天商として焼き物の出店を取り仕切っていた寅さんは疲れ果て、福岡へ向かう電車の中で一眠り。

夕暮れ時、車窓から入るまぶしい、それでいてどこか物悲しい西日に起こされる。 遠くで響くは鐘の音。

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その音を聞きながら、寅さんはしみじみ思うのです。

「鐘の音かぁ……ガキの頃、いたずら三昧で一日遊び呆けていたあのとき、夕ぐれ時に浅草寺から聞こえてきた鐘の音も、たしかこんな感じだったなぁ。おいちゃんやおばちゃん、妹の桜は元気にしているだろうか。好きで選んだ渡世稼業、草を枕とするその生活も、旅行気分で楽しいもの。だけども、日々のこういう一瞬一瞬に、無性に寂しさを感じてしまうときもあるんだよなぁ。」

秋の鐘 ななきそなきそ あかあかと 外(と)の面(も)の草に 日の入る夕べ

旅に身を捧げた男の孤独と哀愁。それを際立たせるような筑紫平野に入る夕陽と鐘の音。素晴らしい情景が浮かんできやしないか!

 

・ ・ ・ ・ ・え?〜〜 寅さんとエセ白秋(※1)が例では,少し時代錯誤が過ぎて分かりずらい……とな。 昭和は遠くなりにけり(つ-ω-`)なむなむ では次はもっと卑近な例を。

※1阿蘇の大地が生んだ、石川啄木の助けで童貞を捨てたことで有名な詩人)

 

 これを仮に中田英寿が公式ブログに書いた言葉だったとする。

− 2006年に現役を引退して以来、ヒデは自分の見聞を広めるため、世界各地をあてどなく放浪している。その旅先で、現地の子たちとサッカーを通じて交流し、サッカーの普及に努める一方で、国際ボランティア活動にも従事しており、旅先で自ら目にした最貧国を救うために基金を立ち上げたり、チャリティーマッチを開催するなどして社会貢献活動を精力的に行っている。

そんな、現代の求道者、生ける聖人のような彼も自分探しの旅の途上、自ら進んで入ったからとはいえ、孤独な身の上でもある。 場所はそう、アナトリア半島の小高い丘の上。 ヒデのアジア横断にもついに終わりが見えてきた。明日にはイスタンブール経由で思い出の地ヨーロッパへと向う.

そんな感慨に浸りながら、草を枕に草原に仰向けになっていた、そんな折。気づけば夕ぐれ時、地中海に沈んでいく夕陽から延びる長い光に起こされたヒデ。遠くで響くはモスクの鐘。その鐘の音を聞きながらヒデは思うのです……。

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・ ・ ・ ・ ・ん? つまりこれらの冗長すぎる例で何が言いかって?つまりは

「書き手に関する背景知識は、無機質な文章を肉付きする。」

その反対もまたしかり

「書き手に関する背景知識がなくては、どんな美文もただの駄文。いわんやブログにおいてをや」

 

この一言が言いたかった………(チカレタ)

 男とも女とも知らない、どこの馬の骨が書いたかもわからないブログを読んで楽しいはずもない. 秋の河原で感じた哀愁だとか、試験勉強の辛さだとか、新しいイヤホン買ったら音圧が強くてチョー良かったd(≧∇≦)bだとか、その日食べたおしゃれなランチの写真だとか綴られても…… まず、お前は誰だ! という話である。

見ず知らずのお前の日常なんぞ読みとうないわ!

 

 フルートソナタであるHess,A11はかつてはベートーベン作曲のものと見られていた。そのため、通を自称する教養人が集うサロンでは、口々に愛でられ、度々演奏されたものだったが、それが偽作認定されたとたん、彼らは雲散霧消し、演奏されることはなくなった。

フランスのノミ市では今でも稀に、ピカソゴッホなどの巨匠の作品が見つかることもあるという。それまで二束三文で売られていた落書きが一転、世界各国の美術商が札束を積んでまで欲しがる絵画へと生まれ変わるのである。

人間失格太宰治という、破滅型の人生を歩んだ著者の死をもって完成した作品である。

 我々は芸術品を鑑賞するとき、その物自体を評価しようとしながらも、無意識ながらも、それを生み出した芸術家自身に思いが及んでしまうことは避けられないことなのである。まして日常を綴った日記をや。

 

  有名人の日記なら露知らず、全くの名前も知らない、赤の他人の生活を垣間見ても楽しいと思えるのは皆無であろう。それが正常な人間というものだ。楽しいと思える方は窃視症のけがあるとすら思える。

しかしながら、そのようなブログが世の中に溢れているのも事実である。 アメーバブログFC2ブログfacebook……

これらのブログサイトのランキング上位を見れば、そういった類のブログで溢れているのは事実だ。 ただ蓋を開けてみれば、それらのブロガーはみな読者モデルであったり、 芸能人であったり、カリスマ主婦であったり、美女・イケメンであったり、言わばリアルでの成功者。彼らに憧れる多くの人が 「その日常を知りたい!」 と強く思うから、そのような日常を綴ったブログが人気を得ているのである。

 では知人に見せるわけではなく、ただ不特定多数の人たちに、自分のブログを読んで欲しいと思うは一般ブロガーはまず何をすればいいのか。答えは簡単である。 自己紹介 それに尽きる。 久々に書きたくなることが浮かんできたので、ぼくは日記を再開しようと思ってこれを書いている。日々の生活の愚痴や、嬉しかったこと、感傷的になったこと、渋谷で服を買ってきた報告や、ちょっとした恋話、将来の不安…… そんな、たわいもない話を、ぼくはこれからとりとめもなく書き綴っていくと思う。

 

 ぼくの日記のスタンスは紛れもなく後者のものだ。だからこそ、軽い自己紹介をこの場を使ってやるつもりだ。 「見ず知らずの他人の日記を覗くのが好きな俺を窃視症扱いしやがって、それじゃあ知らずの人ににっを公開するお前は露出狂か?」と、鼻息荒く言いたいであろう兄貴達もいるとは思うが、その釈明は次に譲るとして、ここは〆まふね。

 

※血気盛んな青年将校みたいな文ですが、ぼくは21現在、都内の私文に通う内向的なオタクで童貞です。上の文は、その、着地点がわからず文才なきゆえの悲劇です。以後お手柔らかにお願いします(^^)/