文弱日記

文学とサブカルとお役所生活

雨の日にアーバンギャルド

 今日という日ほどの雨を憎んだことはない。
 
 元来、ぼくは雨の日が好きだ。しかし勘違いをして欲しくなきのは、それが、『雨音を聞きながら室内でのんびり読書する。そういうのが好きだから。』なんてハイソな理由からではもちろんないということだ。"雨の日"ということばは、ぼくに次のような遠い昔の情景を思い起こさせる。

 

 或る土曜の朝、庭の樹立のざわめきで目を覚ます。見ると、静かな雨が空を、街を、街路樹を仄白く煙らせている。
 しっとりと降りそそぐ初夏の雨。
雨戸で隔てた室内には、その雫さえも聞こえなかった。ただ室内の空気をしめやかに、輝度を緩慢なものにしていた。壁紙の黄檗色が、部屋ににじみ出ている。目覚まし時計にうながされ、体を起こしベッドに端座する。
 ”昼ごろには雨雲は通過する”
居間のテレビが言う。白い雨は、梅雨と逸た。そうして白い雨は、自らはひとり遠くに向かう寂しい旅人のように、この街をひとり通り過ぎる。
 霧雨ふる朝の混濁した調和に包まれながら、ふと、ある考えが脳裏に浮かぶ。その考えが恍惚にも似たある心持ちをいだかせるのだ。
『今日は野外コートは使えまい。』
手足に僅かな震えを伴いながら、再び体を横にする。
 "今日は一日なにをしよう"
 雨垂れはきっと同じ音を繰り返している。


 装飾をなくせばなんのことはない、雨を理由に部活をサボった、ただそれだけのエピソードだ。それに纏わる一連の情景。しかし、ろくに青春を謳歌できなかった身だからか、ぼくはこうした他愛もない思い出にさえも漫ろなくノスタルジヤを感じてしまうのだ。これが防衛本能による合理化の作用によって行われた灰色な青春への潤色、思い出補正済みである情景だということは百も承知。


 雨の日は部活がサボれる、その喜び。
この喜びは、雨を理由に自主休講を決め込む現在にもよく顔を出す。過去と現在において、雨の日というのは出不精なぼくに外出しなくてもいい口実を与えてくれる悪友なのだ。その悪友の度重なる誘いもあってか、結局ぼくは1年もしないうちにその部活を辞めてしまった。そして現在も、そいつのせいで単位が危ない。


だがぼくは彼を憎まない。そう、雨の日というのは快き悪友なのだから。それは、宿題という鎖で家に縛られたカツオを外に連れ出すナカジマの如し。いや逆か。ともあれ、我々は彼を祝福しなければならい。自らはスケープゴートとなり人々に危険地帯(外界)への出征を思い止まらせてくれる天気の鏡、雨の日バンザイ!٩(๑´3`๑)۶

引き篭もる口実を我らに与え、尚且つ安寧(室内)の素晴らしさを奴らに再教育するキングオブ天気、雨の日バンザイ!٩(๑´3`๑)۶

引きこもりバンザイ!٩(๑´3`๑)۶

引きこもりバンザイ!٩(๑´3`๑)۶


――しかし、外出しなければいけないとなると話は別だ。本来ならばその日も自主休講して、Minecraft三昧の一日を送るはずだった。だが、自動車教習とアルバイトという詮方ない用事があったため泣く泣く外出した。

以下雨の日に外出したため被った嫌なこと、

①コンビニで立ち読み中傘を盗まれる。

②そのせいで濡れネズミになる。

③電車に乗れば、車内は混雑しているにも関わらず周囲に距離をとられる。

バイト先で相合い傘を強要される。

⑤湿度のせいか相手の化粧が濃くて怖い。

など手首に一本のエピソードは他にもたくさんあったが挙げれば数限りないし、書き尽くせるほどのメンタルもないので悲しいかなこれらの話は割愛です。そんなこんなで心身ともに疲れ果てた1日に見つけたのがこのアルバム。

よこたんの1stソロアルバム『フィルムノワール』だ。

(※よこたんといっても横井庄一のことではない)

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疲労困憊のなか、TSUTAYAを漂流していた時に見つけたこのアルバム。あのアーバンギャルドの"よこたん"ってソロデビューしてたんだ!?か、買わなきゃ……(使命感)という成り行きで購入したのだが

「まずアーバンギャルドってなに?」

と首を傾げている人もいることと思う。

そこで、アーバンギャルドを軽く説明。

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 アーバンギャルドとは、男女ツインボーカルの日本のポップロックバンドである。
主なメンバーにはボーカルに、元シャンソン歌手の 浜崎 容子作詞
サイドボーカルに、詩のボクシングで優勝経験もある自称前衛詩人の 松永 天馬
らがいる。(ギター、キーボード、ドラム省略)

リーダーでありほとんどの曲の作詞を手がける松永は、バンドの音楽性を「トラウマテクノポップ」と自称しており、歌詞には必ずと言っていいほど「少女」が登場する。また「性」「死」「病」といったネガティブなモチーフが取り上げられることが非常に多く~~(以下略)


 紹介文から漂うドンキホーテのような安っぽい奇抜さ、童貞臭さ。ゼロ年代で言えば神聖かまってちゃん、90年代では平沢進、80年代では戸川純、70年代ではヒカシューと言おうか、つまるところアーバンギャルドとは"人とは違うオサレ感を気取りたいメンヘラサブカル野郎のアイコン"なのである。

そういうわけでぼくもファンだった。

そのピークは、今にもまして病んでいた浪人生の頃だった。当時のぼくがどれくらいファンだったかというと、彼らのアルバムの予約特典としてもらった”処女童貞ステッカー”なる珍品を自分のカバンに貼るほどの入れ込みようだった。

『処女童貞缶バッチ』

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それは処女童貞じゃない人たちがつけるからこそ面白いのであって、処女童貞自身がつけたらそれは悲劇、さながらダビデの星であり、笑えたものではない。その過去を思い出すたびに手首につけたミサンガの本数が増えるほどの破壊力。恐ろしい黒歴史だ。浪人生という不安定な精神状態だったからこそ、彼らの音楽が心に染みたのかもしれない。

なんとか大学生になり、精神の安定を取り戻してからは一転、アーバンギャルドをまるで避けているかのように、聴くこと自体もなくなっていた。よこたんのソロデビューの話は知らなかった。それだけに、彼女のソロアルバムをBOOKOFFで見つけた時は、それはもう驚いて、すぐ購入を決めた。


 アーバンギャルドの咽るほどのサブカル性の元凶は、ひとえに天馬の作詞にある。

「少女(処女)」「性」「病」「死」

ほぼすべての曲、すべての歌詞がこれらの濃いことばを基幹として構成されている。それがひとつのアルバムコンセプトだったら、まだ消化可能だ。確かにファースト・アルバム「少女は二度死ぬ」はアルバムそしては完璧だった。しかし、その路線をマイナーチェンジすることなく5作も連続で続けられるとなると、味が濃く特徴的なだけに消化不良を起こし、しまいには飽きてしまう。

 結成してから早6年、未だに新しいPVが出るたびにセーラー服を着ているよこたんの姿は痛々しいような気さえする。ただ、よこたんのフレンチポップを思わせるウィスパーボイスは今でも大好きだ。天馬さんの童貞臭い作詞から開放されたよこたんのソロアルバム、これは買うっきゃないよね(*´ڡ`●)

 
しかし、購入してから気づいたのだが、収録曲全6曲中5曲が天馬さんの作詞だという……(゜.゜;

結局アーバンギャルドと変わらないじゃないか!!


 騙されたようで悔しかったが、買ってしまったものはしょうがない。仕方がなくiPodに入れて聴く。出てくるものは3年前とあいも変わらず 「性」「病」「死」「少女」「純潔」などをテーマにした安っぽ詞……ばかりのはずだが、あれ?なんか違うぞ?奇抜のようでいて重厚で、予定調和に見えて新鮮な……いい詩じゃないか!!(゚д゚) いや、しかしこの作詞は痛い感じが否めない童貞クッサイクッサイ松永天馬のものだぞ……良いわけがない!


久しぶりに聞いた天馬の詩が原因の葛藤で憤悶すること2日目の夜、ふとぼくをサブカルに陥れた人の言葉が頭をよぎり結論が出た。ぼくはやっぱり今でもアーバンが好きらしい。ここは正直に認めよう。

 サブカル界の大横綱こと大槻ケンヂ氏は言う

「サブカル人は自己同一性を~が好きな自分なり、~を理解できる自分なり、自分の今現在の趣味趣向に 置く傾向が強い。趣味趣向、特に音楽傾向なんかは得てして一過性のものだから、180度変わることもザラにあるんだよね。その際、彼らは古巣を徹底的に貶める。そうすることで、自分の自己同一性を新しい趣味趣向に移す作業が完成する。小学校の高学年の子が、今まで好きだった戦隊物をある日を境に過剰なまでに毛嫌いするやつとかと同じね。それはちょうどマザコンが自立するために、その手段として母親を殺す過程に似ている。」

ザコンの自立、そのための親殺し

これはぼくが好きだった人が大好きだった映画「田園に死す」のテーマだっただけに、その字面だけでも心に来るものがある。

思えばアーバンギャルドも彼女から教えてもらったバンドだったけな。ぼくが最近アーバンを避けてたのも、単なるマザコンの親殺し、彼女の幻影から逃げていただけだったのかもしれない。

久しぶりにアーバンギャルドの曲を聴き、いろんなことを思い出した。なんだか浪人当時に戻ったような気がした。
風のうわさでは彼女、地元の人と結婚していまや一児の母らしい。

アーバンギャルドって知ってる?……キミだったら気に入ると思うな』

確か、彼女と会える日は決まって雨の日だった。

それも含めてぼくは雨の日が大好きだった。

 


浜崎容子 暗くなるまで待って - YouTube