出会い系の流儀 その1

 From 岡本玲
 Sub 無題


 夜遅くにすみません
 私事な些細な報告ですみませんが
 やっぱりお休みすることに決めました
 これから眠ることにします
 みなさん今までありがとうございました
 おやすみなさい


 京王線高幡不動駅から徒歩10分、浅川を隔てた向こう側の閑静な住宅街の中に、怪しい妖気を放つ、今にも崩れ落ちそうな一軒の二階建て木造アパートがある。
名を「コーポ王林」という。
かの幻想文学の巨匠、スティーブン・キング氏も絶賛しそうな面構えをした、廃屋同然の建築物である。その外見はただのこけおどしではなく、夏は熱がこもり、冬はすきま風が入り込む。風が吹けば家が鳴き、震度4の地震が来れば住居者は死を覚悟する。そんな名実共に劣悪な物件だ。

その唯一の魅力は、世間の動向と隔絶した家賃であった。バブル絶頂期から平成大不況を経た2012年の現在まで一円も上がることなく、風呂トイレ付き屋根裏付きの2LDKで5万2千円のままであった。
それのみに惹かれて、兄とぼくはこのクーロン城がごとき、コーポ王林を下宿先に選び、高幡不動尊のお膝元、万願寺に住むことになった。


入居したての去年の春ごろは劣悪な生活環境を嘆き、望郷歌を歌っては遠い故郷、床暖房・空調設備が整っていた実家に思いを馳せていた。しかし住めば都というもので、夏が来るころには新しい環境に慣れ、このコーポ王林での生活を愛するようになっていた。

近頃その下宿先への愛がこうじてか、ぼくはあまり家を出なくなった。世間一般で言うところのひきこもりというやつだ。外界と全く接触を取ることのないぼくの日常は、その八割が妄想で構成されていた。残り二割は夢である。
ぼくにとってこの部屋が世界であり、暗黒の宇宙に漂う不動の地球であった。


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 メールの着信音がした。


 時刻は午前2時をとっくに回った、草木も眠る丑三つ時。4月にもなったというのに底冷えする多摩の気候に慣れないぼくは、布団の中季節外れの毛布にくるまり眠っていた。芋虫のような格好をして大きな牛にまたがる夢を見ている真っ最中だった。
この牛というのが結構なくせもので、あまりにも大きすぎるためか歩くごとにすごい振動で揺れ、なおかつ大きすぎて掴めるところもないため、上手にバランスをとってまたがるのが結構難しい。そのため…………
っと『家柄自慢』『ペットの話』に並ぶ三大どうでもいい話の最高位、『昨夜の夢の話』について長々と書くつもりはないので安心していただきたい。夏目漱石先生並みの文豪でもない限り、夢の話について書こうなどという馬鹿をするつもりはない。

要約すると、一件のメールの着信のせいで、楽しい夢から覚まされてしまったということだ。枕元に置いてある携帯が点滅していた。マナーモード設定にするのを忘れてたようだった。

昔は目覚まし時計を2つセットしても、起きられない人間だったというのに、一人暮らしを初めて以来、音に敏感になってしまったせいだろうか、それとも、あの大地震で被った心的影響のせいか。木造築30年、風が吹けばギシギシと悲鳴を上げる痛風物件と化していたこのハイツ王林で、死を覚悟したのも少し前のこと。
たかがメールの着信音ごときに目を覚まされてしまうとは、ぼくもあの日以来神経質になっていたことに気づき、

「日頃から死にたがっているくせに」

などと自分の脆さに自嘲しては、再び目を閉じた。

 

 メールの内容は見なくても見当は付いていた。わざわざ見るまでもなかった。
 
「今年だけでもう1000件は超えているぞ……」

こんな夜更けにメールを送ってくるのは、決まって迷惑メールであった。


『あなたのカラダが欲しいです(´∀`*)お金も出しますよぉ~』
脳死の際には臓器提供をする大役があるので、人身売買は勘弁)

『初めてなので、エッチなこといろいろ教えて欲しいなぁ~』
(右に同じく未経験者のぼくに教えを請うのはお門違い。他へどうぞ)

『期限は本日まで18億円のご送金の準備は出来ております』
(先月から同じ文面で来続けているよなぁ)


とても愉快な夢を見ていただけに、くだらない迷惑メールに起こされたと思うと、非常に腹立たしかった。そのせいか、横になっても一向にあの牛の夢は見えてこない。


 五分ほどゴロゴロしていると、男女が楽しげに語らう声が耳に入ってきた。耳をすませば、どうやら下の部屋から聞こえてくるらしい。甲高い声に、太く濁った下品な声、手拍子に調子の外れたお囃子。ドタバタと足踏みをする音もした。

またかよ。
何時だと思っているんだ、あの腐れ学生共は。

意識しだすと中々無視できなくなるもので、これじゃ眠りたくても眠れたものじゃない。金もなく、彼女もいないぼくにとっては、睡眠欲のみがなんとか満たすことのできる三大欲求最後の砦であり、そのため安眠に対する思いも人一倍強い。
今日こそ文句を言いに行ってやろうと思い、ぼくは身を起こし部屋を出た。


下の102号室に住んでいるのは去年春、ぼくと同時期に上京して来た、八王子の美容専門学校に通う道産子の女子学生である。
引越しの挨拶の際、ケーキ片手に挨拶に訪れ、我が家に足を踏み入れた数少ない女性の一人でもある。その時はまだ肩甲骨まで隠れるほどの長い黒髪をした、リンゴのように赤い頬をした純朴な少女であった。だが今やもう当時の面影はない。

 東京の一年間が、そんな彼女を大きく変えてしまった。

マフィアの情婦のような奇抜な服装に身を包み、奇抜なピンク色に染め上げられた髪を激しく振りながら、共用スペースへのタバコのポイ捨てについて朝から大家さんと揉める女、それが今の彼女である。それに加えて、週一で開催されるこの深夜のサバトの主催者でもある。
肌寒い外気に震えながら、拳を握り締めアパートの階段を下りていると、非駐車スペースに止められた2台のビックスクーターが目に入った。

『~爆走會』

『憂國烈士~支部』

神州無双』

『魑魅魍魎』

『珠美羅舞』

ボディーには、難しい漢字だらけのステッカーが何枚も貼られている。何かのありがたいお経の一節であろうか。それとも事故物件によく見られる、霊を鎮めるお札というやつか。バイクの後方まで伸びた銀色の筒が月光を反射して、突き刺さるが如き輝きに満ちていた。
その深夜の北関東のコンビニ前の如き戦慄の光景を前に、聡明なぼくは直ちに戦略的退却を開始した。

ぼくの経験上鑑みるに、耳なし法一がごとくボディにステッカーを張り都の排気ガス規制を無視し、地球環境を破壊し、なおかつ騒音問題を引き起こすであろう巨大なマフラーを備えた、凶悪なビッククーターの所有者などは、9割方EXILE好きの素行不良青年に決まっている。残り1割は素行不良なEXILEである。
いずれにせよ、この手の輩と関わるとろくなことにならないのは、百も承知だ。浅川の底を枕に寝ることにもなりかねない。いくら睡眠にうるさいぼくでも永眠はご免こうむりたい。


 そうして家に戻り、真っ暗な部屋の中で枕に顔をうずめて文字通り泣き寝入っていると、5分もしないうちに下の部屋が急に嘘のように静まり返った。
耳を畳に直接当てて、聴力に全神経を集中させると、かすかに女性の甘い声が聞こえてきた。

きっと、閨中遊戯を複数人で楽しんでいるに違いない。
今度は先程とは打って変わって、耳を澄ませ下の階で行われているであろう情事に細心の注意を払ったが、それ以上何も聞こえてくることは無かった。急に寂しくなってきたので、ぼくは耳を畳から離し再び横になった。時計を見ればもう午前3時を回る頃だった。

ぼくは布団から出ると、無用の長物と化して部屋の隅っこに追いやられている勉強机の中から、藍色アロマキャンドルを取りだした。それを机の上に常備されている専用の容器の上にセットすると、その隣に置いてあったライターで火をつけた。
小さな炎がメラメラと灯り、この世のものとは思えない、何ともハッピーないい香りをモクモクと部屋中に充満させていった。このアロマキャンドルは、兄がインド旅行のお土産で買ってきたものであり、兄曰く、睡眠作用のあるハーブが練り込まれているシロモノらしい。その真偽は定かではないが、睡眠障害のけがあるぼくにとって、寝る前に精神を落ち着けるためにも、それはとても重宝している。

勉強机の上でふわふわと輝く、小さな恒星を眺めながら、ぼくは来し方22年間に思いを馳せた。これほど人恋しくなった夜も久しぶりだった。


 六畳の部屋には、鮮やかのかけらもない衣類と、前の携帯の充電器、布団たたき、使い方のわからない健康器具、六法全書判例集のたぐいから猥褻図書までと、ありとあらゆるものが乱雑に敷き詰められている。
食料品、食べかす、使用後の消耗品が置いてなく、(現段階で)虫の住処と化していないところが、ゴミ屋敷との唯一の違いと言っても差し支えないありさまだ。
そんな六畳の中心に設置された万年床に寝転がりながら、人恋しさをごまかすために、迷惑メールが来るようになった経緯を頭の中で辿ってみることにした。


 去年までは迷惑メールひとつ来たことのない清廉潔白な携帯電話だったのにも関わらず、なぜこのように汚れてしまったのか。どうしてこうも迷惑メールが来るようになったのか。
思い出せば、涙なくして語れない長い長いお話だ。

眠れぬ夜にはちょうどいい。少し思い返してみることにしよう。
ぼくは目を閉じ、思い出の世界にズブズブと身を沈めていった。