文弱日記

文学とサブカルとお役所生活

書けない続き

 その日も、書けない原稿と睨めっこしたまま朝を迎えた。


 結局1周間、そのうち2日も徹夜したが、書いては消し書いては消しで、十数枚しか原稿を書き進める事ができなかった。それも納得のいかない駄文を連ねただけなので、出来も芳しくない。朝はいつも通り、眠気もなければ食欲もなかった。それでも徹夜明けの体に鞭打ち、朝食を取りに下宿を出た。

 

 白く霞がかった往来では、風が、湿った砂煙を空に捲き上げていた。大家の庭のまだ緑を残した銀杏の葉も、その中でにさんくるくる舞っている。ツーンと冷たい朝の秋風が身にしみ、ぼくはクシュンとくしゃみをした。

ジーンズに鼠色のワイシャツ一枚。

キリギリスが昨晩の続きを鳴き、いわし雲がつぶらかな秋光を浴びてオレンジ色に染まる景色の中、結核患者のようなみすぼらしい体を晒し色褪せた装いをしたぼくの外見は、きっと場違いなほど晩秋めいていていた。

 

「28日、立川駅で待ってます。」

 

 メールが来たのは20日の晩だった。

その晩もナイトキャップを言い訳に深酒をしていたぼくは、だいぶ酔っ払っていた。マッカランを傾けながら小魚を齧る。それが小さい生活における唯一の楽しみだ。この一通の着信が、その時間をぼくから奪った。来いとも、何時とも書いていないその淡白な文面。差出人の名前。


それは、むかしの知り合いからのメールだった。
 

彼女には、かれこれ6年は会っていない。彼女からの誘いは、いつも何かと理由をつけて断っていた。共通の友人の葬式さえ、ぼくは彼女に会うのが嫌で出席しなかった。

 

 ぼくは彼女を避けていた。

 

大抵な人と違って、彼女は大風の吹く日が一番落着いて好きだと言っていた。新校舎の中庭で、髪を抑えページを抑えと、忙しそうに読書する姿をぼくに笑われては、少し怒りながらその素晴らしさを説明したものだった。

だから今日などは殊に落着いているだろうと思った。殊に美しいだろうとも思った。

 

彼女に読ませたい作品が、未完ながらも少しは書けていた。これを読んでくれたら彼女も納得してくれるかもしれない。許してくれるかもしれない。彼女の困った顔、びっくりした顔を見なくて済むかもしれない。むかしのままの距離で、またふたり会えるかもしれない。

 

 ぼくはふと、会ってみようという気になった。もしかしたら、ダメになったぼくの姿を彼女は笑ってくれるかもしれない。あの文面上、彼女はもう駅で待っているはず。彼女はそういう女性だった。

すき家への歩みを止めて、路上に佇む。朝食なんてやめにして、いまからでも向かおう。その気になると不思議なもので、カーブミラーに丸く映る自分の姿が見えて、妙に恥ずかしい気持ちになった。適当な腹に着替えねば。それに、原稿を取ってこなければ。


足取りを早め、一路下宿へ戻った。上京してこの方、服装に気を使ったことがないぼくが、そう誂向きの服などもっているわけもない。でも、その当てはあった。

 

 下宿に戻るとぼくは、気恥ずかしかったからか少し甲高い声で言った。
 

「お兄ちゃん起きている? もう起きているの?」
 

兄の部屋からは返事がない。

ドアを開ける。
 

「ちょっと急ぎで頼みたいことがあるんだけど、いいかな?入るよ?」
 

足音を偸みながらそっと部屋に入った。南向きの窓から微かに朝日が入るうす暗い部屋のまん中に、一閑張の机があって、兄はそれに突っ伏していた。どうやら寝落ち中らしい。

机の上にはノートパソコン、色鉛筆、アイデアスケッチが描かれた幾つもの紙片、海外有名ブランドのデザイン集、デッサン用の紙粘土……多くの画材が、乱雑に重なり合っていた。と思うと机の下には、古新聞を敷いた上に、夥しい落花生の皮が、杉形に高く盛り上ってあった。

 

ぼくはすぐに兄がこの前話していた、大手企業の学生コンペのことを思い出した。それに応募する作品の構想を練っていたところなのだろう。兄は国立大学院に通うデザイナー志望の理系学生だ。
 

 「やっているな」

──ふだんならこういって、自分はその机の前へ坐りながら、出来たアイデアスケッチを見せてもらうところだった。が、生憎その声に応ずべき兄は、髭ののびた顔を括り枕の上にのせて、死んだように寝入っていた。

勿論ぼくは折角徹夜の疲を癒している彼を、起そうなどという考へはなかった。ここには、調度良い服を少し借りるために訪れただけのこと。
 

 寝入っている兄を尻目に、ぼくはクローゼットを漁る。その中からなんとかそれっぽい服の上下を選び取り、その場でそれに着替えた。しかし又このまま帰ってしまうのも、何となく残り惜しい気がした。

そこでぼくは兄の枕元に坐り、机の上に散らばるアイデアスケッチが描かれた紙片を、暫くあっちこっち見た。その間も風はこの二階を揺ぶってしっきりなく通りすぎた。が、兄は依然として、静な寝息ばかり洩していた。アイデアスケッチはどれも腕時計を描いたものだった。幾何学模様をしたスタイリッシュなベルト、老眼でも見やすいデジタルの文字盤、電子通貨機能を備えた利便性……机に散らばる紙片の一枚一枚に、兄のアイデアが溢れていた。

 

 兄は昔から器用な男だった。
 

絵を描かせれば学校一で、習ってないのにピアノも弾けた。兄が取った様々なトロフィーや賞状は、いまでも実家の居間に飾られている。ぼくはそんな兄が誇りでもあり、劣等感のもとでもあった。

 

ひと通り見終わり、重い腰をやっと上げ静かに枕元を離れようとした。その時ふと兄の顔を見ると、兄は眠りながら睫毛の間へ、涙をいっぱいにためていた。いや、そういえば頬の上にも、涙の流れた痕が残っていた。ぼくはこの思いもよらない兄の顔に気がつくと、さっきの「やっているな」という元気のよい心もちは、一瞬にしてどこかへ消えてしまった。

 

莫迦な奴だな。寝ながら泣く程苦しい仕事なんてするなよ。体でも壊したら、どうするんだ。」

 

──ぼくはその心細さの中で、こう兄を叱りたかった。が、叱りたいその裏では、やつぱり「よくそれ程苦しんだな」と、内心褒めてあげたかった。そう思ったら、ぼくまで、いつの間にか涙ぐんでいた。

自分も夜通し苦しんで、ろくに書けもしない原稿をせっせと書いては毎日を過ごしている。そんなやり切れない心細さが、不意に胸へこみ上げて来た。

 

 ぼくに執筆は向いてない。

 

それはとっくの前からわかりきったことだ。6年前の3月9日、彼女の卒業式のその日も、約束の作品ひとつ書き上げることが出来ず、渡すことができなかった。それから6年、彼女は慶応を出て、そのまま指導教授と結婚し家庭を築いたらしい。ぼくは訳あって、いまだ多摩の田舎で大学生をしている。ろくに講義には出ずに、どこに掲載されるでもない懸賞小説を細々と書いている。

 

彼女からのメールの文面はいつもとは様子が違っていた。何か困ったことでもあったのか。それとも人妻のイケナイ火遊びの誘いか。バカなことも頭に浮かんだ。でも、最後は恐怖がすべてを包む。

 

 文芸部の先輩であり、部の会長。ぼくは彼女に恋をしてた。

 

本を読む彼女の横顔が、才能もないぼくを作家志望へと陥れたのだ。錦を飾るまでは会うまいと決めてから、いや、ダメになった姿を見られるのが怖くて、ぼくは彼女を避けていた。

あれからはや6年の月日が経っていた。未完のあの作品は、今もまだ書き上げることが出来ずにいる。

 

やっぱり会うことは出来ない。

 

足音を偸んで、兄の部屋を出た。書きかけの原稿は、自分の部屋に置いたまま。取りには行かず、ぼくは階段を降りた。駐車場に出ると、銀杏の葉を掃く大家さんに会った。

 

「アラぁ、いつになくコジャレた格好をして、もしかしてデート?」

 

──そのようなものです

 

ぼくはぶっきらぼうな返事をして、足早にお節介焼きの大家さんを振り切った。泣顔を見られるのが嫌だった。匇々凩の往来へ出た。往来は相不変、砂煙が空へ舞い上っていた。そうしてその空で、凄じく何か唸るものがあった。気になったから上を見ると、唯、小さな太陽が、白く天心に動いていた。

 

 歩きながらぼくは、これからの生活を考えた。

 

ぼくを見限った会長を、彼女を見返すためだけに、正規の幸せを犠牲にしてまでも愚筆に余生を賭すこと。惨めな生活で、夜な夜な泣いて過ごすこと。それが馬鹿げたことなのはわかっている。彼女もきっと、ぼくが好きだった、自作の小説を読ませたかった昔のままの彼女ではもはやないだろう。

 

 でも、それでも……

 

浪人以来の過呼吸で眩暈がし、住宅街の四つ辻で立ち止まる。 さてどこへ向かったものかと、朦朧とする頭でぼくは考えた。