入試地獄青春殺し

 東京大学の2次試験の必須の試験科目は、国語・数学・英語の基礎3科目+社会科(日本史・世界史・地理から2つ)の計5科目と、国公立の中でも最多だ。その上、すべてが記述・論述式であるため、一つ一つの試験時間が120分だったり、80分だったりと長く、受験日程は全2日にも及ぶ。これこそ、東京入試が最難関と言われる所以である。


 受験会場は東大駒場キャンパスだったため、当時沖縄に住んでいたぼくは、東京に最低2泊3日する必要があった。受験シーズンとあって、東京行きの便はどれも高額で、都内のホテルの宿泊費だってばかにならない。


 受かる見込みも低いのに、多額の旅費を親に請求してもいいものだろうか、と願書を出す前からぼくは悩んでいた。一方で、サラリーマン時代に学歴で辛酸を舐めてきた琉大卒の父は「息子を東大に合格させる!」と息巻いていた。試験前々日から東京入りできるよう、4泊5日もする旅行プランを組んでおり、ぼくの知らないところで早々に諸々の予約は済まされていた。


 試験前々日の朝、父から手渡された10万円を懐に納め、ぼくは那覇空港から羽田へと飛び立った。うちはあまり裕福な家庭ではない。そのお金の重さや、まぶたに焼き付いた別れ際の父の顔が気圧低下と相まって、機内のぼくをなんともグルーミーな感じにさせた。

ビジネスクラスのシートは狭く、息苦しかった。羽田に着くと、アキバに寄るという事前の予定を変更し、まっすぐホテルに向かった。


 ホテルは受験生パックで予約しただけあって、部屋には蛍光ライト備え付けの勉強机があったり、アメニティには鼻孔拡張テープがあったりと、至れり尽くせりだった。

なかでも、ホテル最上階のイベント会場を勉強部屋として、宿泊している受験生に開放していることが一番の売りだった。ホテルに着いて早々、ぼくもそこを訪れた。


 広い一室には、整然と事務用の長机とパイプ椅子が並べられており、壁側では外国製と思われる数台の加湿器が音もなく蒸気を吹く。東京の夜景を一望できるはずの窓には、すべてブラインが降ろされている。そんななか、すでに十数人の受験生が最後の追い込みをかけていた。
前々日に来たぼくが一番乗りかと思いきや、実は遅いくらいなもので、1週間以上も前から滞在している受験生もいる、と後にボーイさんから聞いた。ぼくは、東大受験の凄さを思い知らされた、というよりは、ぼく以上に家計を蝕む親不孝者の多さを知って、少し安心していた。


 設備が充実しているのにも関わらず、勉強部屋の雰囲気はあまりいいものではない。そこにいる受験生のほとんどは、暖かそうだがだらしのない寝間着姿で、必死の形相で机にかじりついている。ぼくの目には、そのほとんどが浪人生として映り、みっともないなぁ、とさえ思えた。その日は、早々にそこでの勉強を切り上げ、部屋に戻り寝ることにした。

翌日はなかなか勉強する気にはなれなかった。部屋でごろごろしていると、ペイチャンネルの誘惑やら、飲酒の誘惑やらに駆られもしたが、受験のジンクスを信じるぼくは、そうした悪徳に手を出すこともなく、ただダラダラと無為に試験前日の時間を潰した。


 もうずいぶんと昔のことなので、詳しいことは忘れてしまったが、たしか2次試験初日の最初の試験科目は国語だったと思う。試験日は寒さの厳しい2月の終わりごろとあって、東大駒場キャンパスに集まった受験生の多くがマスクやマフラーをしていた。高校の制服姿で来た人たちもいたが、大半は私服だったので、誰が現役生で誰が浪人生だかは、見ただけでは判別できなかった。しかし、だれもが深刻そうな顔をしており、そこでも大半が浪人生なのではないか、とぼくには感じられた。
国語試験は意外とスムーズに進んだ。 東大入試においては、国語はあまり得点源にならない科目と言われており、ぼくはどう頑張っても模試で6割以上取れたことがなかった。そのため勉強を諦めた捨て科目であり、あまり期待はしていなかった。しかしその日は全部の問に答えることができ、なかなかの好感触を得られた。
 

 次がお昼休みを挟んでの数学だ。国語のできが意外によかったぼくは、お昼時間に数学の最終確認をせずに、東大駒場キャンパスをぶらぶらと歩いて時間を潰した。興奮のあまり、朝のうちに買った大きなコンビニ弁当には手を付けることが出来なかった。外は寒く、人影もまばらだった。


 午後の数学試験において、中でも記憶に鮮明なのは、配られた試験用紙をざっと一読したときの驚きである。 丸々1年間といもの勉強をしていなかったのだが、高校1年の頃はそこそこの成績を取っており、センターでも数学はよく出来た方だった。

いくら難しい東京大学の試験とはいえ、2完(全4題中2題を完答すること)はできるだろう、と高をくくっていたのだが、問題を見たとたん目をぱちくりさせてしまった。答えが出てこないとかいう、そんな次元ではない。

問題が何を言っているのか自体が、さっぱりわからなかったのである。

「何か質問はありませんか」と教壇で言う試験官に、問題の意味を尋ねようかとすら思った。


 結局、80分の試験時間を証明問題と確率問題に費やした。数学というよりは国語の言葉遊びで強引に証明をやり遂げ、アラベスクを思わせる緻密で巨大な樹形図を書き確率を導き出した。残りの2問はさっぱりわからない。

余った時間は、机に誰かが彫り開けた穴に消しゴムのかすを詰めて過ごした。
手応えは、運が良ければ0完2半。過程が数学的ではない、と評価されたら0点のなんともひどい出来だった。

 1日目の試験日程がすべて終了し帰りの時間となると、キャンパスの正門付近では各有名予備校が解答速報を配っていた。「こんな短時間のうちに、どうやって?」と疑問に思った。ホテルへの帰りの電車のなかで、受験のジンクスを破ってぼくはそれを読んだ。

「今年の数学は易化」

とデカデカと書いてあった。なんとか書いた2問の答えや導出法も、まったくの見当違いのものだった。


その夜、ぼくは酒を飲み、ペイチャンネルを見て、仲村みうの写真集を近くの啓文堂で買った。


 試験最終日の内容は、あまりぱっとしないものだった。前日での数学の失敗があったので、「これはダメだな」とどこか冷静に状況を客観視している自分がいた。その日はもう解答速報をもらおうとは思わなかった。



 国公立の試験期間が終わると、学校でのイベントは残すところ卒業式のみとなる。クラス内は、受験の緊張から開放されたとあってか、いつになく賑やかで華やいでいた。

なかでも、すでに合格をもらっていた私立組・推薦組のはじけっぷりは、国公立組からしたら目に余るものだった。


 東京から戻ってきた翌日、ぼくが久しぶりに登校した。教室に入るなり歓声が起こり、十数人のクラスメイトに囲まれた。その年は、那覇国際高校においてぼくが唯一の東大受験生とあって、みなの関心は高かった。「いや~ダメだったよ、ダメダメ。とても難しくてさー。」と含み笑いを浮かべながら答えるのが、精一杯の強がりだった。


 教室内にはぼくの席を除き、もうひとつ人だかりができている席があった。なんとそれはあの琢磨の席だった。

琢磨の席の方からは、この3年間無縁だったはずの黄色い声が聞こえてきた。ぼくは耳を疑った。どうやら琢磨が、その年唯一の慶応合格者だったらしい。こんなので人だかりができるんじゃあお里が知れる、と琢磨はぼくに嬉しそうに語った。


 それから卒業式までは、毎日がこんな感じだ。これまで3年間の、少年院のように厳しい受験カリキュラムからようやく開放されたのだから、わけもない。みな期待と不安の中で、 残された高校生活を最大限に消費しようと無我夢中だった。

知っているだけでも、クラス内では3つのカップが誕生し、 7つの純潔が散った。ボウリングやカラオケ、はたまた合コンという不道徳が蔓延った。みながみな、抑圧されていた3年間を取り戻そうと必死だった。


 しかし、ぼくはと言えば、浪人の内々定東京大学から頂いており、刹那的に今を楽しもう、という風潮には迎合できなかった。将来が不安で不安で仕方がない。だからといって、来年に備えて勉強を開始する気にもなれない。ただ、これまで通り体よく学校を早退しては、ぼやぼやと高校最後の時期を浪費していた。クラスメイトからのお誘いは、適当な理由をつけて断った。


「どうやらあいつは本当にダメだったぽい」ということが、学校中に知れ渡る までに、あまり時間はかからなかった。



 卒業式はなんとも呆気なく終わった。卒業パーティに参加するつもりのないぼくは、クラスでひと通り全体写真を撮った後、自転車にまたがってひとり学校を後にした。

未来は不安ばかりで、過去3年間の高校生活を総括できるほど、ぼくには心の余裕がなかった。
早くに帰っても親に心配をかけるだけなので、親思いなぼくは夜まで時間を潰すために、学校と自宅からなるべく離れたところにある漫画喫茶に寄った。



 卒業パーティは、沖縄でも有数のリゾートホテルが会場だった。男子も女子もみな制服ではなく、スーツやドレスや和装にと着飾って参加した。名目上は私的な、有志主催のものだが、実際は教師から校長、PTA会長まで出席する学校主催のパーティなため、アルコール類は出ないが、とても盛り上がったパーティだったと、その夜琢磨から電話で聞いた。


「ふーん、そうだったのか」とぼくは返した。その日は帰る気力が湧かず、結局漫画喫茶に泊まった。ぼくの制服はとても煙草臭くなっていた。


 東京大学から合否を知らせる封筒が届いたのは、3月14日だったと記憶している。結果は不合格

まぁ、当然だろうと、予想出来ていたのでさほどダメージはなかった。


 成績内容を見てみると、ぼくの点数は合格者最低点より12ほど低かった。科目別の点数を見れば、数学を除きみな平均以上、特に国語は8割台とずば抜けてよかった。今考えれば、

「あと1点あれば受かっていたのに!」

というエピソードがごろごろ転がっている受験界において、この12点という点数は決して小さいものとは言えない。


しかし、当時のぼくは「東大も意外とちょろいんだなぁ」と不合格ながら思ったりした。


 この翌年も、さらにその翌年も、ぼくは東京大学を受けることになるのだが、それらの結果は燦々たるもので、ボーダーに12点以上近づけたことはついぞなかった。 


事実上、これがぼくの東大入学試験の最高点数となる。