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文弱日記

文学とサブカルとお役所生活

そうだ、聖書を読もう

エッセイ

就職も決まり、ようやく腰を据えて小説を書くことができるようになった。そのため、この夏休みはバイトも遊びもすべて休み、ひとつ、ものを書くというものに捧げてみようと思っている。

 

学生時代最後の夏休みだ。友人と最高の思い出を作ったり、ひと夏の甘いアヴァンチュールに身を投じたりと、ぼくの周りは何かと浮かれ気味だ。そんな青春を最後までぼくは送れないことは百も承知なので、せめて昔からの夢であった小説の執筆に取り掛かろうと思っている。

 

小説を書くというのは、何よりもまず説得力のある描写力とそれを影から支える幅広い教養というか、知識というものが必要になる。その大切さは百科事典小説と称されるハーマン・メルヴィンの『白鯨』や、トルストイの『アンナ・カレーニナ』などの歴史的超大作に見ることができる。

 

作者の深く広い知識の補完があってこそ、その描写は迫真性を増すのだ。

 

ぼくの場合は、高校期に中二病をこじらせてニヒリズムへと陥った手前、そういった類の教養を馬鹿にして取り合わなかった時期が長かった。

 

読書といっても大槻ケンヂ寺山修司のエッセイや詩集を読むばかりで、読書経験・素養は浅く、ことにその知識というやつが乏しい。そのため、まず何を描くにしても古典的傑作とやらを読みあさっては、知識の吸収に勤しまなければならなかった。

 そんなこんなで初めに手を付けたのが聖書だった。聖書を知らなくば西洋文学はもとより、近代日本文学、エヴァンゲリオンすら理解できない。本棚・押し入れをあさっていると、なんとか聖書を掘り当てた。その表紙はいかめしいほど立派で、新旧合わさっているだけあって結構な質量だ。

 

 

その聖書は昨年の春、下宿先の地区を担当していたエホバの証人の勧誘員の少女からいただいた思い出の本だ。さっそく、この本を机の上に開いた。ふと、あの少女の、あの真っ白い細い腕に這うようにしてできた、手首から肘にかけての根深い、一本の傷跡がまぶたに浮かんだ。

 

エホバの証人はその教えから、一時期子への体罰を奨励していたことがあり、ベルトやホースでの鞭打ちや、頭部・顔面への殴打までもが信徒の親子間で『教育』と称して頻繁に行われていたという。彼女のその傷を見た時、それが原因で出来た傷ではないか、とぼくは思った。

 

エホバの証人の勧誘活動は基本二人一組のツーマンセルで行われる。その組み合わせは、主に若い娘とその母親といったところだろう。前衛を機動力のあるオバサンが務め、後衛に微笑みの天使を配置する、エホバ特有の鉄壁の布陣だ。

 

前衛のオバサンがぺちゃくちゃと厚かましくしゃべるなか、後衛の若い娘は屈託のないその笑みで、訪問先の人の警戒心を解くという高等戦術。ぼくの家を訪れたその二人組も、世間話、パンフレットの説明、聖書の話まで勧誘らしい勧誘は全てオバサンが行っていた。一方で、娘は何をしているかと言えば、ただ、いかにもな薄い作り笑いを浮かべてはじーとぼくの様子を眺めているだけなのだ。

 

大学をサボった水曜日、お昼前に起きてのんびり情報番組でも見ながらブランチを食べてるそんな時合、ピンポーンとチャイムが鳴り、こんにちわーと玄関ドアの向こう側から若い女性の声が聞こえてくる。

 

ドアスコープ(玄関ドアについた覗き穴)を通して見れば、冊子を抱えた若い娘が笑顔でこちらを見ている。あっ、きっとエホバの宗教勧誘だ と思いながらもぼくはドアを開ける。

案の定いつもの2人組、宗教勧誘だ。娘はただの餌でしかなく、ドアの影にはその母親が隠れているという具合だ。しかし、そう悪い気もしない。彼女と同じ空間を共有する、それだけでぼくは嬉しかった。

 

ぼくにとって異性とのコミュニケーション、とりわけ妙齢の女性とのそれというのは、全く機会がない。華の大学生なはずにも関わらず、母親からの電話とコンビニ店員との会話を除いては、全く異性と話さない、というのがその頃のぼくの日常だった。

 

そんな、ぼくのような絶食系男子にとって、妙齢の女性と空間を共にする、という体験はとても貴重なもので、それを得るためには、たとえ金銭を支払わなければいけないとしても、喜んでぼくは対価を支払う心構えはできていた。

 

金があったら連日連夜のキャバクラ・ガールズバー通いも辞さないつもりだ。ただ先立つものがないからには仕方がない。その日もこうしたかたちで聖少女との逢瀬を楽しむしかしようがない。

 

ぼくは、若い女性という“色仕掛け”を使ったエホバの宗教勧誘というのを逆に利用した。その話を聞いてあげる、宗教に興味を持ったフリをする という対価を支払うことで、妙齢の女性との会話を買い取ったのだ。これは懐に優しいキャバクラであり、毎週水曜日のこの彼女(たち)の訪問を待ち遠しいとさえ、ぼくは思っていた。

 

 

聖書はオカルトにはまり中2病をこじらせた中高生期と、その娘さんと仲良くしていた去年の春頃によく読んでいたため、ひと通りの知識はある。 しかし、オカルト雑誌を読むスタンスで、斜めから、馬鹿にするような態度でしか読んでなかった。

 

今回は、物語として、文学としての聖書を味わうため、速読は控えて一言一句飲み込むように読むことを決意し、分厚い旧約聖書を開いた。

 

世界の誕生、楽園追放からヨセフによるエジプト移住までを綴った創世記、エジプトでのユダヤ人の苦難、一大スペクタクル葦の海の軌跡、シナイ山でのヤハウェとの契約を描いた出エジプトまでは楽しいのだが、祭祀の規定、神聖法集を記録したレビ記、長々と各種族の人口調査の記録が続く民数記などは果てしなくつまらなく、前期預言者の書にさえたどり着けずに、ぼくは聖書を投げ出してしまった。

 

それからごろりと横になって、ぼくは彼女に思いを馳せた。彼女がうちの地区の担当を外されたのは、その年の冬のことだった。それ以来、彼女とは会えていない。

 

決して好きだったとか、そういう訳ではない。色がないぼくの青春を少し彩った、聖少女のいまが、少し気になっただけ。そうした回想がひと通り終わると、ぼくは再び聖書を開いた。

 

ぼくは神を信じていない。その根拠とされる聖書の話の多くは荒唐無稽だ。そして何より、決して笑うことがなかった彼女の瞳が、その不在を物語っていた。

前期預言者の項をすっ飛ばし、ぼくはヨブ記を開いた。