文弱日記

文学とサブカルとお役所生活

映画ギライ

 映画を好む人には、意気地なしが多い。劇場は、弱虫だらけだ。映画好きを公言する人を見るたびに、ぼくは、「恥ずかしくないのか?」とすら思ってしまう。

内定式、懇親会の場で、これからの同僚となる人たちの自己紹介を聞きながら、ぼくは内心、彼ら、彼女らを蔑んだ。これが偏見だということは重々承知だ。なかには、心身ともに健やかで、ハツラツとした人もいるだろう。でも、やっぱり、「映画好き」というのは、公言してはいけないような、そんな後ろめたいことに思えるのだ。

 

 ぼくも、かつては映画好きだった。大好きだった。心の弱っている浪人期には、どこへ行くでもなしに外に出てはふらふらと映画館に吸い込まれていた。しかし、これからの目標があるとき、未来を生きようという元気があるときは、例え金曜ロードショーですら見向きもしない。時間が惜しいのだ。

 

  何をしても不安でならぬ時、また何もしていないからこそ不安でしかたないときに、映画館へ飛び込むと、少しホッとする。日々のつらさ、寂しさは、場内の真っ暗闇が隠してくれる。目の前でちかちか光るスクリーンが、日頃抱える悶々とした自意識の受け皿となってくれる。黒い影のようなもの。漠然とした自己嫌悪や不安感もここでは薄まってしまう。

誰も自分に注意しない。映画館の一隅に坐っている数刻だけは、全く世間と離れている。あんないいところは無い。

 

 こんな姿勢で映画を見るものだから、映画自体の内容なんてものは、たいして問題ではなかった。そのため、映画はたくさん見た、と言っても、そのほとんどの内容は覚えていないし、映画論など語れるわけでもない。また大衆娯楽映画、特に流行りのハリウッド映画にはたいへん疎い。それらは、近代的なシネコンで上映される。観客の回転率を上げるため、映画の長さはせいぜい120分ぐらいしかなく、エンドクレジットが流れ終われば観客は外へ出なければならない。

劇場に長い時間いたいぼくとしては、それが嫌でならなかった。名画座なら一日中だって場内に留まることが出来る。シネコンの、『巷で話題の映画』を見に来た客層、というのがどうもムカつかせる。

一方名画座の客層は、こう、世間からこぼれ落ちたような人たちが多かった。その空間は、とても居心地が良かった。このように、見る映画や観賞姿勢において、ぼくは幾分か世間とズレていた。映画トークで盛り上がろうにも、話が合ったためしがなかった。

 

 浪人期、ぼくは、たった1000円で2本も3本も映画を見ることができるとなり町の名画座に、自転車で足繁く通った。そこで上映されるのは、『全米が~した』で総称される、いわゆるブロックバスター映画とは程遠いものだった。

モノクロの文芸映画、ATG作品、東映任侠モノ、B級カルト映画、マカロニウエスタンなどの、ホコリまみれの作品。これらは、お世辞にも面白いと言えるものでない。しかし、作品が俗世間にまみれていなければまみれていないほど、ぼくは架空のストーリーの中にジワジワと埋没することができた。この快感がたまらなく、そういう映画を好んで見た。これが当時のぼくのダウナー系ドラックであり、名画座は差し詰め阿片窟といったところだった。

 

どうにもならない日常から、遠く高く自分を投げ出してくれるスクリーンとフィルムの闇、そしてすえた臭いの立ち込めた場内。これがどんなに助けになるかを、強い人たちはきっと知らない。

 

 狂った映画、爆発した映画、重く暗い映画、淡々としたロードムービー……。名画座では、ぼくは、たいていの映画に泣かされた。必ず泣く、といっても過言では無い。

愚作だの、傑作だのと、そんな批判する余裕を持ったことが無い。宝石箱とゴミ箱をヒひっくり返したような、理屈では説明の付かないハチャメチャな映像が目まぐるしく展開する前衛映画ですら、エンドクレジットが流れるころには、ぼくは決まって泣いていた。

 

 洋画は出来るだけ吹き替え版で見た。こう言うとたいていの映画好きからは小馬鹿にされる。ぼくだって、原語で楽しめないことを、恥ずかしいことだと思っている。でも。原語では会話が少しもわからず、さりとて、あの画面の隅にちょいちょい出没する文章を一々読みとる事は至難である。ぼくには、文章をゆっくり調べて読む癖があるので、とても読み切れない。映画を見る時は、実に、疲れるのである。

それにぼくには、外国人の顔の区別がつかない。登場人物の多いサスペンス映画を見たときなどは、頭痛を覚えるぐらいで、推理すらままならなかった。

 

 あるとき、ヒッチコックのオールナイトを見に行ったことがあった。22時開始の翌8時終わりという5本10時間にも渡る濃密な内容だった。それにすべてが字幕版ときた。

その日も、結局1作目から頭痛が起こり、残りの4作はできるだけストーリーを頭に入れないように、字幕を追わないように、ただ文字通りスクリーンを見ていた。あまりクッションの利いていない椅子に、社長がエラソーに背中で座るときのようにふんぞり返って腰を下ろす。座席は決まって前から10番目の真ん中だ。場内を見渡すと、観客はちらほら20人ほど。それはいつものオールナイトに比べて少ない数だった。

 

━━ヒッチコックって効果音を、ほんと効果的に、絶妙なタイミングで使うでしょ。突発的に、大きな音で。だから、寝に来た人には煙たがられるんだよね。

 

休憩時間、受付の男が教えてくれた。たしかに、いつものオールナイトでは見える、毒々しい出で立ちをした女性、黒服の男、赤ら顔の中年男性、などの面々がその日は場内に数えるほどしかいなかった。

その名画座は繁華街のはずれにあり、飲み屋街、風俗街からのアクセスが悪くない。 暗く、涼しく、ひざ掛けを上げれば横にだってなれる。そんな名画座は、不夜城の住人たちの寝床としても機能していた。思えば、売店ではアイマスクや耳栓も取り扱っていた。それが売店の稼ぎ頭というのだから、おかしな話である。寝るためにオールナイトに足を運ぶ層、それが、その日は少なかった。

 

 受付の男の話が正しいともすると、彼ら、彼女らは、ヒッチコック映画が何たるかを知っていることになる。「今夜はヒッチコックか。じゃあ、寝れないじゃん。」入り口に掲げた上映スケジュールを見て、名画座を素通りする彼、彼女。

 

━━ああ見えても、映画を知っているんだよ。

 

もしかしたら、彼ら・彼女らは、ぼくと同じような青春を過ごした、好きもの、日陰者かもしれない、と思った。青春の殺人者かもしれない。

「自分には人と違った何かがある」と信じながらも、その自信に何も根拠も見出だせないでいた中学生のぼくは、せめて読んだ本の数、観た映画の本数を増やすことで、クラスの他の人達と差異をつけたい、と思っていた。それが、ぼくの名画座通いの始まりだった。そして、気づいたら、その暗闇にしか居場所がなくなっていた。

知識を増やすために映画を見る、そんな姿勢を取る元気もいつしか消えていた。彼ら、彼女らにも、もしかしたら、もしかしたらそんな過去があったのかもしれない。映画好きだった昔の自分、その自分の姿をスクリーンに思い描いては、彼ら、彼女らは、眠りにつくのだ。涙を見せぬように、アイマスクを被るのだ。そうだ。そうに違いない。

 

━━感傷的過ぎはしないか。

 

うん、そうだと思う。

 

━━ああ、なりたいのか。

 

いや、なりたくない。

 

━━キミには、素質があると思うけどね。

 

少ないとわかってて、どうしてヒッチコックをやったの。

 

━━それでも、キミみたいな大学生は見に来てくれるからさ。

 

大学生じゃないんだ。

 

━━知ってたよ。

 

結局その日も、一作も犯人を当てることができなかった。退場の時間。無精髭を生やした面長な男が、ふらふらと場内から出てロビーのぼくの前を通り過ぎた。東映特撮ナイトでも見た、常連の大学生だった。ひとり、必死にメモを取りながら鋭い眼光でスクリーン に食らいつく彼を、ぼくは半ば軽蔑し、たいへん愛おしく思っていた。

しかし、見ると決まって、この不吉な姿が、こののち長くぼくのまぶたにこびりついたらどうしよう、と心配した。

名画座を出ると、もう太陽は真上に登ろうとしていた。アーケードに散った白光が、とても目に染みた。

 

 場内でぼくは観衆と共に、げらげら笑い、観衆と共にめそめそ泣くのである。そして、たまにぐうぐうイビキをかいた。ぼくは、名画座に、映画にたくさんの時間を費やした。

特に好きでもなかったヒッチコックですら、こんなエピソードがあるのだ。あともう少しぐらい、映画について語らせて欲しい。難しい映画論とかではなく、これは単なる映画にまつわる思い出話だ。だからながいと言わず、もう少しだけつきあって欲しい。

 

 暗くて重い映画。劇場の闇のなかで見るこれは、とても身にしみた。なかでもぼくは、アメリカン・ニューシネマがお気に入りだった。それはモンモンとした、暗い青春映画群だ。自分のなかのドロドロとした焦燥感や不安感を「絵」にしたら、きっとこうなるといった手本のような映画たち。

 

『タクシードライバー』『真夜中のカーボーイ』『カッコーの巣の上で』『俺たちに明日はない』『いちご白書』『ファイブ・イージー・ピーセンス』『マッシュ』『ギャンブラー』

 

こればかりはセリフを暗記するほど見ていたので、字幕を追う必要もなかった。貧乏ったらしいダメな若者が、その主人公だった。彼らは、青春とは名ばかりの、やり場のないモンモンとした日々の果てに、ドブネズミのように美しく散っていくのだ。しょんべんを漏らして死ぬ男、キチガイのフリをして本当にキチガイになってしまう男、拳銃で蜂の巣にされる男と女、腐れ縁の女を捨てて北へと逃げる男、自暴自棄で大統領候補の暗殺を企む男。みながみな、自分の暗い将来を暗示しているようで、とても心地良かった。

 

 不幸にあこがれ、病弱を美しいと思い描く。敗北に享楽し、不遇を尊敬する。愚かさを愛す。

━━つまりはテメェのナルシズム。

そう、結局はナルシズムだ。

 

 当時のアメリカ社会の病理、行き場のない夢を抱いた若者の自滅、地平線の彼方への逃避、・・・・それらの反映。創造的でもなければ破壊的でもない、中途半端な映画運動。ぼくはその映画の主人公に、自分の姿を見つけることが出来た。「あーぼくもダメだ。ダメ人間なんだ。」と自虐的に思うことは、心地よいものだった。

センチメンタルな少女が、「ワタシは世界一不幸よ」と思い込むことに似ている。この、『自虐的ナルシズム』をくすぐる映画は、何もアメリカン・ニューシネマに限ったことではなかった。むしろ、それは邦画の土俵であった。

東京物語』『ハチ公物語』『家族』『火垂るの墓』『男はつらいよ』『路傍の石』『泥の河』『菊次郎の夏』『19歳の地図』『ヒポクラテスたち』『ガキ帝国』・・・・最近で言えば三丁目の夕日も、その系譜に入るだろう。 

 日本の映画は、敗者の心を目標にして作られているのではないか、とさえ思われる。野望を捨てよ。小さい、つつましい家庭にこそ仕合せがありますよ。お金持ちには、お金持ちの暗い不幸があるのです。あきらめなさい。と教えている。世の敗者たちは、この優しい慰めに接して、しくしくと泣いてしまうのだ。これがいい事だか、悪い事だか、ぼくにもわからない。

ともかく、ぼくは好んで、名画座の闇の中に、「暗い青春」を観に出かけた。

 

 やはり五年前、沖縄で浪人生をやっていたとき、くるしまぎれに国際通りまで、何のあてもなく出かけていって、それから懐中の参考書を売り、そのお金で映画を見た。

男はつらいよ」の第一作目がやっていた。この時も、ひどく泣いた。さくらの泣きながらの抗議が、とても悲しかった。ぼくは声を挙げて泣いた。たまらなくなって便所へ逃げて行った。あれも、よかった。

 

 すべての映画が、こう、「敗者の糧」というわけではない。007、アベンジャーズ、海猿踊る大捜査線、ディズニー映画、そうした元気な映画も、世の中にはいっぱいある。けれども映画好きの大半は、こうした映画をけなす。語る価値あり、と持ち上げるのは決まって不健康な映画だ。

ひょっとしたら、彼ら、彼女らは、侘わびしい人たちばかりなのではあるまいか。名画座のロビーにたむろする入場者を見ると、ぼくは、ひどく重い気持になるのである。「映画でも見ようか。」この言葉には、やはり無気力な、敗者の溜息ためいきがひそんでいるように、ぼくには思われてならない。

 (メインディナーが出るころには、会場は賑やかになっていた。お酒のおかげだろう。声を張らなければ、相手に聞こえないくらいだ。テエブル上には、話が数本並行している。女が、正面に座っている男に体を向け、話を振る。)

 

 「 ☓☓さんは、たしか趣味が水泳だっておっしゃってましたね。」

 

 「ええ、ただそれは面接用にこしらえた嘘でしてね。」

 

「じゃあ、本当の趣味は何なのですか?」

 

「無趣味なんですよ。まったくの。」

 

 「暇な時は一体なにをしているんですか?」

 

 「インターネットかテレビを見てます。◯◯さんは何をなされているんですか?たしか、趣味が、」

 

 「映画です、休日はほぼ映画を見ています。☓☓さんもそうだと思ったのに、残念だなぁ。」

 

「ぼくが、ですか?」

 

(女、少し大げさな動作でテエブルを見回す。一同、個々の会話を止め、女に注目する。)

 

 「だって、このなかに、インドアっぽいの☓☓さんしかいないんですもん。映画好きがいるとしたら、 ☓☓さんかな、と。」

 

 (テェブルの一同、一笑。)

 

 「こんな体ですからね。たしかにインドアです。で、最近はどんな映画を見たんですか?」

 

 「先週は、ホットロードを・・・妹にねだられて見に行きました。全体的に絵が停滞的で、ストーリーも観念的な失敗映画でした。」

 

 「ホットロードですか。映画は映画館で観る方なんですね。」

 

 「いえ、DVDで見るほうが多いですよ。その前日は、家でフェリーニ三昧でした。"道"という映画を知っていますか?フェリーニ映画のなかでも、私はそれが大好きで、年に数回は観ちゃってます。これでもかって、画面いっぱいに、それでいて淡白に充満する惨めさ、これがたまらないんですよ。☓☓ さんが、一番好きな映画は何ですか?」

 

「映画には詳しくないもので。」

 

 「いままで見てきたなかで、一番おもしろかったのでいいですよ。」

 

 「・・・・・愛のコリーダ、ですかね。」

 

 「知らないなあ。どんな映画ですか?」

 

 「・・・・・切っちゃうんですよ、女の人が。男のものを。」

 

 「え、男のものを、ですか・・・・・なるほど、だから愛のリコーダーなんですね。」 

 

「コリーダですよ。」 

 

「あっっ、ちょっと、アハハハハ、も~やだ。ハハハハハ」

 

(女の笑いに巻き込まれ、再び、一同一笑。女は、小指を少し立てた右手で、微笑する口元を隠した。それは、むかし何遍も練習したどり着いたと思われる程の、完成されたポオズだった。テエブル上で、並立していた数本の話が、映画話のもとに合流した。数分、全体での映画の話が続き、それから諸々の話へと分化した。)

 

(司会から閉会の言葉が述べられ、一同、店を出る準備をはじめる。)

 

「☓☓さんは、今度、一緒に名画座に行きましょうよ。」

 

名画座ですか。」

 

「一緒に映画を見ましょうよ。私、東京は初めてだから、どこがいいのかとかよくわからなくて。」 

 

「ぼくも、映画はあまりわかりませんって。」 

 

「いや、映画好きだって顔に書いていますよ。」 

 

「そんな顔してますか。」

 

「さっき、私が『ホットロード』って言ったとき、鼻で笑ったでしょ。それに、『フェリーニ』って言ったときは、もっと笑っていましたよ。」 

 

「笑っていましたか。そんなつもりはなかったんですが。」

 

「嘲笑が隠せていませんでしたよ。」

 

「そんな顔してたかなぁ。」

 

「だから、行きましょうよ、名画座大島渚の作品とか見れたらな―ってのが、できればの希望です。」

 

「わかりました。帰ったら、調べてみますね。」

 

「連絡先は、って、先日交換しましたよね。絶対ですよ、絶対。」

 

「ええ、必ず。」 

 

 あらまほしきもの。映画好きなきみ、映画嫌いのぼく。弱った女、力強い男。