文弱日記

文学とサブカルとお役所生活

受験地獄青春殺し

 ぼやぼやと失恋ばかりを引きずっている間に、ぼくの高校の成績は面白いぐらいにどんどんと落ちていった。

 ぼくの通っていた那覇国際高校という学校は、いわゆる“自称地方進学校”というやつだった。授業は朝の7時の0時限から始まり、夕方17時に終わる6時限まで。テスト前ともなると、7時限や8時限まであったりする。

夏休みや春休みもたったの2週間しか与えられておらず、土日だって模試がある日は、全員強制で出席し、受けなければならなかった。

 少年院を思わせるようなキチキチの授業計画で、高校3年間分のカリキュラムを高校2年までの2年間で全部済ませてしまう。残りの高3の1年間は、入試専用の特訓に充てるわけだ。

 中学校からこの那覇国に入ったときのぼくの成績は1番だった。いま思えば、"自称"地方進学校というだけあって、周りの偏差値はせいぜい60前後しかなく それほど賢い人がいなかった、ということもあってのこの順位だった。当の本人のぼくの感想としては、「こんなものなのか」といった具合のものだった。


 それからちょっと気を抜いて、文芸部に出入りするようになり、ものを書いたり、モテようとして難しい本やバイオリンなんかに手を出したりしているうち(当時はのだめがブームだったため)に、みるみる定期テストでの校内順位は下がっていった。

 それでも、高2までは、まだ踏ん張りがきいて、全体で言えば、まだベスト10には入るところには定着していた。それが高2の冬、失恋なんかがあったりして、ちょっとの間高校にも行かずふらふらしてた時期を経て、気づいたらまったくもう勉強なんてしていなかった。

 あの落ちこぼれていく感じというのは、急激に変化する”落下”、というよりもじわじわと進行していく”腐敗”と言ったほうが近いと思う。最初は1,2時間授業をさぼったくらいの、ほんと微々たるズレなのである。それが、なにかの拍子で雪だるま式に大きくなっていき、しまいには教師の言っていること、参考書に書かれていること、がまったくわからなくなってくる。
そんな感じでも、土日に行われる外部模試では、ぼくは校内トップに順位にいた。そのため、ぼくの腐敗は周りに気づかれることなく、ぼくはまだ自称地方進学校のお山の大将でいれたのだ。

 しかし高3の夏を過ぎると、周りがメキメキと力をつけてくる中で、ぼくはその腐敗臭を隠し切ることができなくなった。校内順位は上位3分の1にも入らないようになり、恥ずかしさのあまりついにはもう模試や試験には出席しなくなった。

 ぼくにはもう、成績というものがつかなくなった。完全に「番外地」の住人になってしまったわけである。

 授業に出てもボヤボヤと文学を読んだり、家ではギコギコとバイオリンを引いたり、ジクジクと痛む失恋の傷口をなめたりしているうちに日々が流れていき、やがて恐れていた入試のシーズンがやってきた。

 ぼくは高1のときから『東大志望』を口にしていただけあって、東京大学以外の選択肢はなかった。もちろん、受かる見込みもない。 ただ、高校を出ても働く意思がまったくなかったので、親の手前、受験せざるを得なかった。
また、どうせダメなら東大を受けるだけ受けといて、「東大を落ちましてね」という免罪符を手に入れるのも、後の浪人生活を考えれば悪くもない選択だと思えた。

高い授業料の上に旅費まで出させられる親としては、たまったものではない。

その年のセンター試験の総合点は800点代だったと記憶している。(なにせこれを含め全3回も受けたのだから詳しくは覚えていない)それまでがダメダメだった割に、非常に良い出来だった。駿台の東大合格判定でもB判定がもらえた。

「ぼくってやっぱり頭いいんじゃないか。」 

 思い上がったぼくは、特に考えることもなく東大に願書を出した。 ぼくなりに家計を考えて、その他私大には出さなかった。