ノスタルジック残業

タスクバーに置かれた時計は20時を指していた。

 

 オフィスには庶務係を除き、企画、実務、どの係も半数ほどが残っている。ぼくはディスプレイに映るエクセルの数字と依然格闘中。退勤時間から逆算すると、まだあと3時間は残れる。ひとつの表をプリントアウトし、右手に持った赤ペンで出先の間違い箇所を修正し始めた。

 

 職場でのぼくの係の業務のひとつに、出先から上がった数字を、正しい資料と法律を元にチェックし、修正するというものがある。ゴリゴリとマウス上部のホイールを回しながら、怪しい数字を探し、見つけ次第端末に残された事務所メモやマニュアルと照らし合わせる。何を根拠にその数字を出したのか、を推測し検証する地味な作業だ。間違えらしい数字を見つけたら、まずは出先に確認の電話。それが間違えなら間違えで、そこから指導に入る。

その日も、時間外だけで数件も怪しい数字を見つけた。といっても、電話はできず。なんせ時間外、出先の人はとっくにみな退勤している頃だ。財務と総務が本庁ビルを照らしていた。

 

 ディスプレイのエクセル、手元の資料。それを交互に見返してこの作業を繰り返し。時間外だと誰とも口を利くことはないので、クロレッツを噛むことがこの時間帯のぼくの習慣となっていた。管理職がみな帰っている時間だからこそできる、残業時間の楽しみだ。お腹が空いた日はカロリーメイトやおにぎりなんかを買いに行くこともある。

 

 この時間の業務を、ぼくはけっこう気に入っていた。なんせ指導の電話をするとこもなければ、問い合わせの電話が来ることもない。ぼくの嫌いな電話業務が一切ないからだ。

日中の電話業務では、ぼくはほぼ出先の職員を詰めている。

「数字が合わないがどういうことだ」

「期日はもう目の前だぞ」

「前も言いましたよね」……

新卒のオタクに詰められる出先の人を思うと可哀想以外のなにものでもないが、それが仕事。詰めなければ隣で聞き耳を立てている先輩に「坪内くん、もっと強めに言わないとまたこっちの仕事が増えるわよ」とぼくが詰められる。

優しすぎるオタクにこの業務は優しくない。

 

 時計の針が22時に差し掛かった。気づけば職場にはぼくを含め数人しか人は残っていない。しかしぼくの業務はまだまだある。 エクセルのシートはようやく全体の3分の2が終わったばかりだ。

「今日は23時を越すかもしれないな」

そんなことをどこか悠長に思いながら、ふぅ、とためいきをつき、大きく椅子にもたれた。ギーと回転椅子が鳴る。ふと、頭をよぎったのは学生時代のくだらない思い出だ。

 

 

 大学時代、当時のぼくにはサークルが同じで家が近いから、という理由で仲良くなった、福島出身の同じ大学に通う友だちがいた。

ぼくも彼も下宿先は高幡不動。そういうわけで、週3,4は会って食事したり遊んだり、お互いの下宿に泊まりあったりした。彼はぼくのことが好きだったし、ぼくも彼のことが好きだった。そう書いても気持ち悪くないくらい、とてもきっぷの良い男だった。

 

 大学2年生のころの冬、そんな彼からあるお願いを頼まれた。「○○ちゃんと食事会をしたいからぜひ坪内くんも来てくれないか。」と彼は言った。その場で告白するんだ、とも彼は言った。ぼくは彼女を知っていた。以前、彼の地元の女友達、ということで彼から紹介され、いっしょに食事をしたことが一度あった。

 

 二つ返事で彼の頼みを聞き入れた。当日、しっかりと場を暖め自分なりに上手にアシストをし、その夜はふたりを残して先に帰った。手応えはまぁまぁ。いけるだろう、とぼくは思った。が、結果は撃沈。翌朝、彼の悲しみの玉音電話で起こされその燦々たる結果を知った。

「今夜にでも一緒に飲もう、そのとき詳しく話聞くよ。もちろん、ぼくの奢りでいいからさ。」

 

 内心とても嬉しかった。抜け駆けした報い、ざまあみろ、とさえ思えた。当時のぼくには彼女はもとより、告白したフラれたなんて浮わついた話は一切なく、何より日常生活圏にそうした女性がいなかった。

それでも、それをよしとしていたし大学やサークルの男だらけのホモソーシャルに青春を沈めてやる気概だった。それゆえに、彼の持ってきた「異性交遊」というカルチャーに半ばショックを覚え半ば嫉妬していた。

 

 その日はうまい肴でうまい酒が飲めると、彼が好きだったいいちこと無数のおつまみを手にルンルン気分で彼の下宿に向かいクソミソ飲んだ。

フラれるまでの経緯と、それに対する男の女々しい嘆きを肴に飲むいいちこはとても美味しく、半泣きな彼をよそにぼくはゴクゴク飲んだ。それまでの2年間、そしてそれ以後の2年間、大学時代はいろいろなヤバイ飲み会に参加したが、後にも先にもその日以上に酔った日はない。

当時流行っていた深夜アニメを見終わった辺りから、周囲が明るくなり始めた4時頃までぼくはゲロゲロ吐いた。何故か彼の下宿の駐車場で小さく丸まりゲロゲロ吐いていた。アニメを見終わってからどうして駐車場に出たのか、その経緯は覚えていない。

 

 約2時間、一通り吐き終わった後、心配する彼をよそにぼくは自分の下宿に歩いて帰った。

外気は肌を刺すほどに冷たく空にはまだ白いお月様が浮かんでいる。不安そうに見送る彼を背中に、ふらふらと街を歩いた。

人の失恋飲みで何やっているんだよ。童貞がよ。

上京して2年、歩き慣れた道には人影もなく、街はまだ夢を見てる。目に映るすべてのもののなかで、きっとぼくが一番惨めだ。フラれたとか、女友達だとか、きっとそうしたものにもこれから縁がないに違いない。ぼくは、ぼくは……。

グラングランする頭で何を考えても答えは出ず、その日は大学を休み一日中家で寝ていた。

 

 

 

 「あのーすみません、もう閉めたいのですが…」

守衛さんの声でふと意識を戻した。時計の針は1時に差し掛かろうとしていた。企画の島にも職員はいなく、オフィスに残るはぼく一人。

守衛さんに謝りそそくさと帰り支度をし外に出た。終電はもうない。駅前でタクシーを拾い、寮までと行き先を告げる。真っ暗な府中街道を走るタクシーの窓ガラスに映ったぼくの顔は疲れきっていた。

「苦労を知らないオタク顔だったから、むしろいい男になってるよw」

と彼女からのLINE。

「へーそうかい!」

とぼくは適当なスタンプで返信した。

 

 「理想だった自分になれているかなぁ」

と最近よく考える。最悪だったはずのむかしが懐かしくって仕方なく、だからといって戻りたいかと聞かれれば断固拒否するが、当時の方が幸せだったような気もする。

当時は自分なりの哲学があったし、彼女がいなくたって思想があった。文学がそばにいた。

いまは、小金もあれば念願だった彼女もいる。それに安定した未来も。だけど、どこか釈然としない毎日を送っている。日々の労働を前に思想も哲学も敗北を続けてる。本も最近は読む余裕がない。ふとしたきっかけでむかしを回想する度に涙が出てしまうのは、きっと歳のせいなのだろうか。

 

 「坪内くんには一番最初に言わなきゃと思ったんだけどさ、付き合えたんだよ、○○ちゃんとさ。この前またアタックしたらオッケーだってw」

 

その夜、ぼくは彼と飲みまたゲロゲロ吐いた。たしか彼がそのフラれた日から2か月後、大学の春休み期間中のことだった。

「あんなに心配したのによー、コロッと付き合いやがってよ!」

と挨拶がわりに怒りはしたものの、前回よりも嫉妬は薄く、友の幸せを喜ぶことができた。

その時期、ぼくは以前書いた短編小説のコンクール予選突破が発表された頃ということもあり、とても心に余裕があった。夢という夢がようやく形になりそうな気がした。

彼には彼女ができて、ぼくは物書きの第一歩を踏む。高幡不動には春風が吹きはじめていた。

 

 

「彼女のことまだよくわからないや。結婚とかは、いまはいいかなって」

 

福島にUターン就職した彼からLINE。彼女も福島Uターン就職組だから、就職したらすぐ結婚する!と、彼女にゾッコンだった彼にもいろいろあるのだろう。エリートな彼の勤め先を思うと、女が右から左にひっきりなしなこととか、激務でそれどころじゃないとか、そういうことが頭をよぎった。

深いワケは聞かず、

「相手はどうなっても結婚式には呼んでくれよな」

とだけ返した。

ぼくもぼくとて、あのとき書いていた小説の続きを、未だ書けずにいる。真っ暗な部屋のなか、もう読みもしないだろう本の山を崩さぬように蒲団につく。

 

 翌朝、起きると目頭が濡れていることに気づいた。内容は覚えてないけれど、きっと懐かしい夢でも見てたんだろうなー、と思いながらぼくは朝の支度を始めた。