文弱日記

文学とサブカルとお役所生活

あの頃、エリカと冬

「負け組でいいよ、別に。これはぼくの人生だ」 
そう言ってぼくはエリカの手からコントローラーを奪い返した。 
彼女はしばらく何か言いたげに立っていた。脳天気などうぶつの森のSEが部屋中にピコピコ響く。 
間が悪いな、とぼくは思った。ただ、テレビの音量を下げるのも癪だったので、ゲームに熱中している振りを続けた。その後ろで、彼女は黙って着替える。洒落たブラウスの上にカブトムシみたいなコートを羽織って家を出て行った。シックな家具で部屋の模様替えをし、雨の日だったので海にシーラカンスを釣りに行く。あからさまな彼女のファッションに思い出し、ぼくはひとり部屋でしくしく笑った。 


9月、エリカは体調を崩して2週間入院した。 
朝ごはんに晩ごはんは、いつも彼女が作ることになっていたから、その間ぼくは1日1食となった。 
親には会いたくなかったので見舞いには行かなかった。それを知ってか彼女も「見舞いに来て欲しい」とは一言も言わない。「勉強が忙しくてさ~」っとぼくはメールした。もちろん勉強なんてしていない。これが優しさのつもりだった。 
彼女からもメールが時々来て、ぼくはそれに時々返した。 
彼女から送られてきた病室の写真には、ぼくがいつかあげたダッフィーのぬいぐるみが写っている。 


10月、エリカが法学のテキストを買ってきてくれた。 
「教科書代がないから講義にも出てない」という、ぼくのいつものウソに対する彼女の回答だった。 
「のりくんが取ってる講義の教科書、部屋にないものを買ってきたの」と、プリントアウトしたシラバスをぼくに見せた。 
ぼくはゲームの手を止めて紙を見た。彼女がトイレに行って帰ってくると、ぼくは気分が悪いと言って布団に丸まっていた。 


11月、夜、真っ暗な部屋で「また職場でお客さんに告白されちゃった」とエリカが言った。 
「もちろん断った。彼氏がいるの?って聞かれたからいるって答えたの」 
「そうかい」 
「うん、そう」 
ぼくは彼女がどんな仕事をしているのか知らなかった。 
気づいてはいた。けど、気づかないフリをしていた。 


12月、クワガタムシみたいなコートを羽織って、その日もエリカは仕事へと向かった。 
夜、彼女の勤務地であるという池袋まで電車を乗り継いで迎えに行くと、「のりくんの格好は池袋でも目立つね」とエリカが声をかけてきた。ねずみ男みたいなデニム生地のポンチョを着ているのは、選り取りみどりな池袋駅でもぼくだけだ。周囲には彼女のようなクワガタムシみたいなコートを羽織った女性がちらほら見える。淡い石鹸の香りがした。声をかけられるまでぼくはエリカに気づかなかった。 
「ね、けっこういるでしょ、このコート」と彼女が言うと、「焼き肉が食いたいな」とぼくは言った。 

池袋から電車で1時間、多摩センターの牛角に着いたころには時計は22時を指していた。 
「今週は小テストでいい点取れたから、そのお祝い」 
「今度は単位取れるといいね」 
薄っすらと煙がかった個室に入り、彼女はコートを脱ぎハンガーに掛けた。紫のブラウスの光沢が煙のなか乱反射しぼやけて見える。 
ぼくが勢い良くお肉を焼くものだから、彼女のブラウスには無数の小さな染みがそこら中に出来た。 
「せっかく買ったばかりだったのにこれ明日クリーニングかな」 
胸元のフリルを撫でながら彼女が嬉しそうに言った。 
ぼくも機嫌が良かったし、彼女も上機嫌だった。 

しばらくすると大学生風の男女の団体が入ってきて、近くの席に座った。そこには何人か知った顔があった。 
ぼくは「もう出よう」とエリカに言った。彼女がデザートのシュークリームを注文したばかりだった。
会計を済ませて外に出てぼくらは駅まで歩いた。 
外は寒く空気はヒリヒリと肌を刺すように冷たい。 

「ぼくは歩いて帰るよ」 
多摩センター・モノレール駅の改札でぼくはエリカに言った。 
彼女はもう改札の向こう側に入ってしまっていた。 
「何で? 遠いよ?」 
と言われたが、ちょっとお金がないからだとか、お肉を食べ過ぎて気分が悪いから、だとか適当な理由を言ってぼくは彼女を残し歩き始めた。 
空にはお団子のような月が浮かんでる。吐く息はしろく街灯はまばら。とてもさみしい夜道だった。 

電気をつけると、部屋が妙にしんとしている。 
高幡不動の家についたのはエリカと別れて2時間後ぐらいだった。 そこに彼女の姿はなく、居間のテーブルの上には明日の朝ごはんの作りおきがされていた。 「今どの辺り?」とメールを送っても返事がなかった。 


それほど遠くないむかし、文字通りわんわんとエリカに夜泣きをされたことがあった。 
その頃の彼女は情緒不安定で、理由もなくよく夜に泣いていた。 
そんな彼女に向けてぼくはいくつかの短い物語を書いた。どれもぼくのダメなとこや、浪人時代の怠惰な生活を下地としたくだらないバカ話だった。

自分の恥部をさらけ出すことで、彼女の心の傷を少しでも浅いものに出来たらと、ぼくは本気で考えていた。 
その夜、隣でわんわんと泣くエリカにぼくは聖書の話、とりわけ楽園追放の話をした。 

人は何事も考えすぎて考えすぎて傷ついちゃって苦しい思いをする。 これはアダムが知恵の実を食べてしまったからゆえの副作用、しょうがないことだと聖書には書いてるんだ。妊娠が女の罰、労働が男の罰なら、メンタルヘルスは人間全体の罰だって。 でも、人類はそのおかげで繁栄し、エリカみたいに繊細な人たちがいるからこそ詩も芸術も生まれた。 その繊細さはとても素晴らしいことなんだウンヌン。 

エリカは真面目に聖書の物語を話すぼくに、「むずかしくてわからない」とか「初めて聞いた」とか言った。彼女の心にはあまりぼくの話は響いていないようだった。 
「でも、のりくんの話を聞いているとなんだか安心する」 
バベルの塔が崩壊したところで、彼女は眠りについていた。 


付き合いが長くなり、ぼくが何事に対してもルーズになってくると、逆にエリカがしっかりするようになっていた。

エリカはぼくの将来を心配していた。だけどそれ以上に、ぼくはエリカのことが心配だった。ふたりのこれからが怖かった。