文弱日記

文学とサブカルとお役所生活

若者

若者は入れ替え制。年代は新陳代謝を繰り返す。

むかしの若者はいくら若ぶったって、もう若者とは見られない。

自分よりも若い子が入ってくると、もう自分は若者ではなくなる。

人は、だいたいのことがわかっている。だいたいのことがわかっていながら、わかってわかっていない風を装っている時期が若者で、すべてわかっている風なこと語り始めると若者ではなくなる、と誰かの話に聞いた。

学生時代、10年代。ぼくは多浪生。とにかく背伸びがしたくて、すべてわかっている風を装った。いま、2016年。ぼくは社会人2年目。下の後輩も入ったというのに、責任回避の保身から、まだ慣れない異邦人を装っている。

でも、ひとつだけ、ずっとわかっているもの、わかったつもりになって信じていたものがある。考えれば考えるほどわかった気になれる"自分"というもの。

JPOPではよく自分らしくなんて口にするけど、そもそも自分が何なのかわからない人に"らしさ"なんてわからない。

ぼくにとって10年代は若者だった。並の若者に思われたくなくって、難しい本を沢山読んだし、へんてこな映画もたくさん観た。そうして、あまりいない若者を装っていたつもりだったけど、すぐにバレて自信をなくした。

ゼロ年代から10年代にかけて、一家に一台パーソナルコンピューターの時代から、一人に一台スマートフォンの時代になった。すぐググれる時代の始まりは、サブカルの終焉でもあった。知識はウィキペデイアに取って代わられ、クラスの○○博士もネットの向こうの巨人たちに蹂躙された。マルクスを読んでも、寺山を観ても、本物のそいつらには敵わなく、無尽蔵に伸びた天然パーマな頭で、ねずみ男みたいなデニムのロングコートを着てキャンパスを歩くことが、唯一のぼくの抵抗だった。

それから――。

自分と信じていたものがあまりにももろく崩れた。現在26歳、ぼくはぼく自身をよくわかっていなかったし、そもそもそんな青臭いもの探している年齢ではないことに気づいた。2年前からサラリーマンをやってる。平日は毎日ちゃんとアイロンがけしたスーツで出勤だ。難しい本をめっきり読まなくなったし、映画はハリウッド超大作ぐらいしか最近は観ていない。先日、髪の毛にストレートパーマをかけたら思いの外女性陣に好評で、なんで今までかけてこなかったんだろうな、と少し後悔した。