文弱日記

文学とサブカルとお役所生活

長いコメント

ねぇ、これから 展覧会に行かない?


僕の左掌が暖かく柔らかな小さな手にそっとにぎられた。声の主はもう一度言った。


ねぇ、キミ、忙しいかい?それともそうしていつまでもぼんやり突っ立ってるの?


僕の頬にふっと息が、いや息の様な風が触れて、はっと我に返った。僕の手を取ったのは透き通る琥珀色の目をした小さな男の子で、初めて見る子だった。


辺りにはその子の知り合いらしい人は誰も居ない。僕にはその子が降って湧いた様に感じられた。今日は本当に不思議な日だ。


どこかで会ったっけ?


僕の質問には答えず、その子は


あっち!


と指さしてグイグイ僕を引っ張った。


ねぇ!ヨシュアで良いよ、ね?そう呼んでよ。


(変な名前だ。聴いたこともない。)


アハハ!ユダヤ人に会ったことないんだね?ボクね、ユダヤ人だから、日本人にはへんてこに聞こえるんでしょう?名前が?


(知るもんか、どうしてこっちの考えてることが読めるんだ?)
僕の戸惑いと驚きをよそに、その子は2間程の間口にしか見えない小さなギャラリーの入り口で立ち止まった。


ここ!


ヨシュアは暗いガラス戸を見て顎をしゃくった。


ねぇ、早く入ろう!今日は無料で入れる日だからお金心配要らないよ。それに、そのキミの服、カッコイイや!黒くてさ、真っ黒で、安息日のラビみたいだよ。


ギャラリーの廊下は長く、奥が深かった。
古いアメリカ映画のポスターみたいな物が掛けてあった。


ああ、それね、死んだ叔父さんのお気に入りだよ。
TO KILL A MOCKINGBIRD、見たことある?


ここ、本当に絵画屋さんなの?


そうだよ。でも売ってない。売らない絵画屋さんなの。ただ見せるだけの。ほら、入ろ。


中は、深海みたいな静けさで、逆さに吊るされた中世の燭台に灯る蝋燭みたいな仄暗い灯りが点々と見えた。


ここに、女の人が居るでしょ。


僕はドキッとして立ち止まった。


違うよ、絵だよ、絵の中の女の人だよ、よく見て。ほら、血を流して横たわってる。えらく弱った病気の女の人だよ。この人、裸さ。皮膚が剥けて、全身真っ赤で、動けないんだ。ボク、見せたかったんだよ、キミに。


見ると、周りの絵も、どれもイモい感じがした。グロテスクと言うより、なんともイモいんだ。何とかしてやりたくなるような、そんな感じなんだ。僕は咳を一つした。どうしてか分からないが、咳をした。


この人、どうしたんだと思う?どうして周りの人は彼女を助けないの?昔、叔父さんが言ってた。人の気持ちを理解したけりゃ、その人の靴を履いて歩けって…あの映画の中の台詞だよ、さっきのポスターのね。ボク、この人、大おばあちゃんの様な気がする。大おばあちゃん、マンダネクの生き残りなんだ。奇跡的な。


男の子の頬に一筋の雫が線を描いた。


意味の無い事など無いんだね。


つと、僕の口からそんな言葉がこぼれた。


そうさ。意味の無いことなんか、この世には何一つ無いのさ。


ヨシュアが後を繋いだ。その横顔は大人の男の様だった。



赤い女の絵の前でどのくらい時間を過ごしたのか分からない。長くもあり短くもあった。疲れて頭がぼんやりするまで僕とヨシュアは居た。



キミのその服、この人が喜んで居るよ。ボク、分かるんだ。だってね、ボク達、今でも世界中の反ユダヤ主義の人達から阻害され誤解されて生きてるからだよ。誰もそれを葬ってはくれない。ボク達を許してはくれないんだ。だから、ボク、この絵好きなんだ、きっと。


うん。


僕はうんとしか言えなかった。それでも何かが通じた気がした。


店の奥から声がして、「閉店のお時間です」と言った。


シャバット・シャローム!(平安があるように)



ヨシュアの小さな手が伸びて、僕の手を取り握手した。



あのね、自分を持って良いんだよ!キミは、もっと自分を持つべきさ!シャローム!サヨウナラ!



ヨシュアは暗い廊下で手を振った。僕達はそこで別れたが、僕は帰りの道は分かっていた。