文弱日記

文学とサブカルとお役所生活

朝◯学校に行った話

朝鮮総連に連なる組織と交流を持ってるって言っても……読者でいてくれるか?

 

今回は仕事の付き合いの関係で朝◯学校に勉強会に行った時の話。

 

動員のため数が欲しい、で話が回ってた。特にその日用事もなかったぼくは、断る理由がなかったので参加した。

 

当日は朝鮮学校で集合。そこから校長先生の講演を聞き、授業参観、生徒たちの劇や演奏を観賞し、最後は参加者がグループに別れてそれぞれの学びを発表し合った。

 

校長先生の講演は至極まっとうなものだった。北朝鮮の政治体制に触れることもなければ、昨今のヘイト問題で日本人を責めることもない。朝鮮学校の歴史と地域との関わりの話。優等生すぎる内容で、「高等教育無償化の適用を求める」という勉強会の裏のテーマが透けて見えた。

 

生徒数は各学年10人未満。授業は全部朝鮮語で行われていた。聞けば、みな入学時は日本語しか喋れず、朝鮮語は学校の授業で習って覚えたという。授業の発言は朝鮮語で行い、私語は日本語で行っていた生徒たちの無邪気な姿が印象的だった。

 

丸一日朝鮮学校で聞いて見て学んだことは、「ここはとにかく疲れる空間」だということ。その是非や歴史の真実はともかく、その空間に身を置く、生徒先生は一日中否が応でも「在日とは何か、差別とは何か、朝鮮民族の誇りとは何か」を考えることを余儀なくされる。授業参観というイベントで訪れたぼくたちはよいとして、彼らはそれが毎日である。疲れないのかな。「なんでもないただの自分」としていることをあの空間は許してくれない。

 

ぼくは地元にいい思い出がないせいか、故郷や国やなんなら民族だってどうでもいいものだと思っている。時代は21世紀だ。そんなのなくなってしまえとすら思ってる。

だからこそ、彼らもそうあるべきだと思ってた。

朝鮮学校こそ、"朝鮮人"”日本人"という意識なんて捨て去って、一人の個人として生きる生き方を教えるべきでは」と。

しかし、実際に朝鮮学校で1日を過ごして気づいたことは、朝鮮学校はもとより、ぼくたち"ふつうの"日本人が通っている学校、生きている社会こそ、根深いナショナリズムに覆われた環境であるということだ。

「日本は単一民族国家だ」

とある元総理が言ったように、日本という国や大和民族というファンタジーを特に意識せずとも、その概念は生活の至る所に満ち満ちてる。

在日朝鮮人を見れば、北朝鮮と結びつけてしまうし、最近ではヘイトスピーチの影響から、より『保護されるべき被差別者』としてぼくは見てしまっていたし、これからもそのステレオタイプな考えは改められないと思う。

これはぼくだけではなく、特に共に参加した生活者ネットワークの人に強く見られる傾向だった。彼らは口々に「"日本人として"恥ずかしい」と言っており、中には涙し”日本人を代表して"謝罪する人までいた。子どもたちもかわいそうだと思った。

子どもたちに接触してくる日本人の大半が、敵意を持った差別主義者か、自分たちを個人ではなく可哀想な被差別民としてしか見ない左翼なんだから。

 

差別者にせよ、こうした自称庇護者にせよ、個人ではなく民族と国家で人を見るナショナリストだ。日本社会はそれで溢れている。そんな中で、『在日朝鮮人としてのアイデンティティなんて捨て去って、国や民族を超越したリベラル人として生きよう』なんてアドバイスは非現実的だった、と思い知った。

仮に、ぼくが在日朝鮮人だったら、と考えた。

「おれは朝鮮人でも日本人でもない、◯◯(個人名)だ!」

という信条を公立小中の9年間曲げずに生きていけるか、と。

絶対できない。周りのみんながそういう生き方を許容してくれる環境であれば可能だろうけど、モラルや法や論理がまかり通らない公立学校では、まずムリだろう。きっと、在日のことを自虐のネタにして、否定するポーズを取り続けながら、内心日本人を憎んで過ごすんだと思う。

朝鮮人学校ではない公立学校に行った在日の人にそうなる人は多い」

と校長先生も講演で話してくれていた。

 

「ルーツを否定するでも、無価値なものとして捨てるでもなく、学び誇りに持つこと、そうすることで、我々はより良い人生を歩むことができるようになる。」

確かにそうだと思った。

「当たり前に日本人として、日本人を当たり前のものとする日本社会に住む人達には、わかりづらい感覚だと思いますが、我々にはルーツの肯定が必要なんです。」

確かにそうだと思った。

「そのための学び舎として、またそうなれるまでの悪意やまた誤った善意からのシェルターとして、朝鮮学校は必要なんです。」

本当にそうだと思った。

 

世間が言うように、確かに朝鮮学校には北朝鮮の体制を賛美する校風があった。朝鮮総連との強い結びつきも感じられた。だからといって、一概に無償化の枠から外してもいいものなのだろうか。憎き北朝鮮に対する制裁としてではなく、個々の子どもたちの立場に寄り添って、公立学校と朝鮮学校、そのそれぞれの教育環境が在日朝鮮人の子どもたちに与える影響を第一に考えるべきではないだろうか、と思った。

"異質な"朝鮮学校の授業参観はもちろん、在日朝鮮人の子どもたちが通っている”ふつうの"公立学校の授業参観こそ、この議論をさらに進める上で必要なものに感じた。