文弱日記

文学とサブカルとお役所生活

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「悪くないね」と君は言う。

 駅のホームに冷たく乾いた秋風が吹き込んでくる。 
 空気の渦の中、掻き分けるようにして差し込む光の粒子。ハチミツ色の夕日が、君の輪郭をやわらかに染めあげる。 
 目を細めて見返しながら、「何が」と僕は訊く。

「あなたとこうして、手をつないでいられるってこと」

 君の手のひらから伝わるぬくもりは、寒さを忘れさせるほどに心地いい。言葉で肯定するかわり、握る手にぎゅっと力を込める。 
 伝わるのかな。たぶん、伝わった。

 自分のすぐとなりに、誰かの体温を感じられるというのは幸せなことだ。しかもそれが、大好きな人のものだったなら、なおさら。 
 冬を待つ東京の寒さにはまだ慣れないけれど、君のぬくもりをこうして浮かび上がらせてくれるのなら悪くない。それだけで苦手な寒さすら愛せそうな気がする。

「人が」とひと呼吸おいてから。

「どうして手をつなぐと安心するのか、知ってる?」と君に問いかける。

「それってさ、わたしと手をつないでいあいだは、安心してたってこと?」 
 質問には答えず、綻んだ顔を向けてくる。心を見透かされた気がして、頬が熱くなる。 
 その感情を悟られないよう、すばやく言葉をなげ返す。

「じゃあ君は、どう思ってたのさ」

「なにそれ。質問に答えてないじゃない、もう」 
 どっちがさ。自分のことは棚に上げて。君のわるい癖だ。

「まあいいや。わたしはね、あなたと手をつないでいるあいだ、すごくあったかい気持ちになれる。どんなに寒くても、そこで生まれた暖かさが、すーっと身体の芯まで沁みこんでゆくみたいな」

 君が握る手から、ふっと力が緩む。

「ただ、これだけのことなのにね」

 ほぐれた指先が、手の甲をやさしくなぞる。 
 ふいに鼓動がはずむ。ほんとうに、ただこれだけのことなのに。不思議でしかたがない。

「さっきの続きだけど」 
 何も言えなくなりそうで、慌てて会話の舵をきる。

「子どものころ、親と手をつないで歩いたり、眠ったりしただろ。そのときのほっとした気持ちををずっと覚えているから、だから手をつなぐと安心感が得られるんだよ」

「ふーん、そっか。じゃあわたしと手をつないだら、お母さんを思い出すんだね」 
 声音を変えて、くちびるをとがらせる。すねたような横顔が可愛い。 
 ちがうよ、そうじゃない。わかっているくせに。 
 伝えたい想いはたくさんあるのに、うまく言葉にしきれない。

「子どものころ親からもらっていた安心感を、大人になってこうして他人から与えてもらえるなんて、すごいことだと思わない?」 
 それはすてきな奇跡だ。誰だっていいわけじゃない。 
 誰のぬくもりでも、いいわけじゃ。

 こうしてふれ合える相手を、僕たちは求め、出会い、選び、そして選ばれて、確かな安らぎのなかでつながり合う。 
 それはあたりまえのこと。だけど、きっと特別なこと。

「……だから、だからさ」 
 最後まで口にできず、下を向く。 
 あふれだそうとする感情がどれほどあったって、口に出せるのはほんのわずかだ。 
 僕らはいつだってそうで、それはどうしようもなく悲しい。肝心なときに、いちばん大事な言葉が出てこない。

 沈黙を、なでるように風が吹いた。 
 その風にそっとのせて、そよぐ君の声。

「そうだね。あなたとこうしていられるってこと、それはきっと特別で、とてもすてきな奇跡だったんだって、わかってる」

 見あげると、眩しい太陽を背に受けて君は、穏やかに微笑んだ。

「……いくなよ」 
 その顔を見た瞬間、気持ちがこぼれだす。

「じゃあ、いくなよ。僕といて、そんなふうにまだ思えるのなら、いくな。そばにいてくれよ」 
 最後は、すがるように。

「ごめん。でも、いかなきゃ」

 そう言って、君は手を離す。切り離された想いが宙を舞う。 
 タイミングを計ったようにすべり込んでくる、無機質な電車の音。 
 そして、追いうちのふいうち。

「ねえ、あなたはわたしの手をにぎったとき、どう思ってくれてたの?」

 問いかける瞳は、うっすら涙でにじんでいる。

 まだそんな顔、するんじゃないか。 
 だったらなんで。

「……最高に、幸せだったに決まってる」

 しぼり出した、まじりけのない本心。

「よかった。わたしもだよ」

 それは泣き顔だった? それとも笑い顔? 
 判断に迷う僕を取り残し、君は電車に乗り込んだ。

 ――サヨナラ

 言葉ならない声で、くちびるがゆれた、気がした。

 僕は答えることができなかった。 
 何も言えず、ただ去っていく電車を見つめていた。 
 取り残された心で。

 夕日が、紅茶色に染めあげるホームには、誰もいなく。 
 冷たく吹きすさぶ風のなか、君から伝わったぬくもりだけが僕の手に残っていた。 
 いつもでも、いつまでも。

 

-The Zen of Python, by Tim Peters