恋と革命とアーバンギャルド

ぼくは佐藤優が嫌いだ。

そういう人はたいていむかし佐藤優が好きだった人であり、今もその影響下にいる人だ。
ぼくも例には漏れずその一人なんだと思う。

彼は当代一の教養人と言われているが、その知識には誤りが多い。得意とするマルクス主義の解釈にさえ明らかな誤読が多々ある。
それに彼は卑怯だ。議論となれば得意とする神学の領域にすべて引き込もうとする。並の知識人では、「20世紀のポーランド神学者〜の著書によれば」なんて話を出されると返せるわけがない。だって知らないんだもん。そういう手法で彼は議論を圧倒する。

佐藤優、彼はさも当たり前の常識のような感じで、20世紀の東欧の神学を論拠に、社会問題を語る。オタク的教養がすべて実生活、現実問題に接点を持っているというスタンス。これはタチが悪い。

ぼくはむかしから佐藤優が好きだったし、今でもその影響下にある。それは認める。でも、やっぱり佐藤優が嫌いだ。


そんな話を日常生活で誰かとできれば幸せだけど、職場も家庭もそんな感じではない。
佐藤優ってだれ?」
そんな感じだ。


だからこそ、ここでは佐藤優についての感想を書く。
こういう話が日常生活でできたらどんなにいいだろう、とたまに思う。日常生活でできたなら、きっとTwitterもブログもやめると思う。レーニンの封印列車に込めたドイツ帝国の陰謀、地方自治体が持つ住民情報の市場価値、javaの未来、そんな話ができたらどれほどいいだろう。そんな人と結婚したかった、と思ったりもする。



先日、妻とその元家庭教師と3人でご飯を食べた。元家庭教師、彼は未婚だ。

「坪内さん、結婚っていいものですか?ぼくはあなたのような人間が結婚したなんて信じられない。」

「たしかになあ。妻とはよく喧嘩します。家に帰って、ご飯を作って、洗濯物をして…これがぼくのルーティーンなんですが、家事をすべて終わるともう22時で、あとは寝るだけ。」

「それではまるで…」

「そう、それではまるで犬の生活なんですよ。それではまるで。」

ぼくが妻の元家庭教師にこう答えると、妻は怒ってこう言った。

「わたしはその、"犬の生活"が大好きなんだけど」

悪いこと言ったなと、ぼくは後悔した。ぼくも本当はこの生活が大好きなんだった。



むかし、バーエデンという池袋の要町にあるバーに足繁く通っていた。
「北大生をイスラム国に誘った」とかいう人たちが集う、アウトローなオタクたちのバーだ。ぼくは、その犯罪の匂いがする雰囲気に惹かれて通い始めたわけだが、実態は単なる自閉症気味のオタクの集会所だった。
カウンターで同席した客に話しかけても、みんな薄ら笑いを浮かべるばかりで、何にも返さず。革命の話などできたものではない。


少し違うな、と思いながらも友達が少ないぼくはバーエデン通いを続けていた。
ある日隣の席に座った女の子と仲良くなった。
彼女はぼくの振った話に120%の正解で返してくれた。聡明で、可愛く、梶芽衣子(昔の女優)に似た気高さがあった。出会ったその日にして、ぼくは彼女に惚れた。

その日のうちに連絡先を交換し、その後、バーエデンで会ったり、錦糸町を歩いたり、渋谷でシガーバーで慣れない葉巻を吸ったりした。
彼女と初めて話たとき、ぼくは何とか彼女の気を引こうと、ウソの家族の不幸話なんかをした。
お母さんがメンヘラで大変だという話。エデンのバーテンダーは大変そうだな、可愛そうだな、と同情してくれて、なんなら毒親バーイベントのバーテンをやらないか、とすら声をかけてくれた。

一方彼女は「まぁこれからいいことありますよ」だとか「私と出会えたことが好機ですよ」と言ってくれた。今にして思う、これこそメンヘラの相談に対する最適解だ。彼女はとても賢い人間だった。祖父とコミュニケーションを取るために高校は囲碁部に入り、クライアントの気を買うために登山を始めるような梶芽衣子だ。とても好きだった。


しかし終わりは訪れるもので、当時付き合っていた女性に、その梶芽衣子の存在がバレて、結局約束していた秩父ドライブをドタキャンして以下のようなLINEを送って終わってしまった。

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無念。

彼女となら佐藤優の話ができたかも、とたまに思う。クロポトキンが好きで、DIR EN GREYを歌う、とても賢い子だった。
彼女の前では嘘の家庭不幸話をしすぎたため、ぼくは「エデンイチの毒親家庭だ!」とバーテンたちに持て囃された。
嘘が露呈するのが怖くて、彼女と関係を断って以来バーエデンには行ってない。



彼女と関係を断ってから、
「やっぱり君しかいない」
とその当時付き合ってた女性に言った。
「うそつき!!!」
とその女性に言われさんざん殴られた。蹴られもしたしお小遣い制にもなった。月20000円。兵糧攻めだ。
互いにワーワー言い合ってる間に、気づけば結婚し、その女性は冒頭の妻となっている。



先週、妻とその女友達と3人で先日渋谷で飲んだ。その女は華やかな会社で働くOLで、
「地方公務員とかありえなーい」
とか言う。
「旧帝未満とかありえなーい」
とも言う。
「だからオマエはセフレ止まりなんだよ」
という言葉をグッと抑え、
「そうだよね。ハッハ」
と弱い返事をぼくはする。
彼女たちは慶應卒で、確かにそういう資格がある。妻もぼくみたいなのが相手でよかったのか、とすら思えてくる。


帰り道、妻が言う。
「彼女ぜったい幸せな結婚はできないだろうな。だって相手のスペックしか見てないもん」
ぼくは安堵の表情で
「そうかなあ」
と言った。

「結婚はスペックじゃない」

スペック婚の本当の被害者である妻の言葉は重い。
彼女は上流階級の出身で、世が世ならぼくなんて会話ができなかったような人間だ。


「開業医の父と美しく気弱だった母の結婚は絵に描いたようなスペック婚活だった」

と自分の生まれた家庭のことを妻はよく話してくれる。
そんな両親の結婚生活がぐちゃぐちゃになっていく様を間近で見て育った彼女は、結婚で本当に大切なのは会話だということに気づいたらしい。

その「会話」というのが何であるか具体的に妻が話したことはないが、「差異の存在を前提とした上で、根気強く話し、互いを理解するように努める姿勢」というふうにぼくは理解している。


「でも、」

と、妻が言葉を続けた。

「私も君が高卒だったらイヤだったなあ」

ぼくは不意に寂しい気持ちになった。


元来オタクなぼくは、21が初恋だったぼくは、恋愛がずっともっと尊いものだという意識がある。
恋愛とは打算が入る余地がないものでなければならない。
相手がどんな会社に勤めているか、大学はどこを出ているか、親は何をしているか、恋愛とはそんなものの影響を受けて始まり終わるものではない。

恋愛とはロマンであり情熱であり、心の炎だ。言葉にできるような、そんな安っぽい理由なしに、ビビっと好きになり、食も睡眠も忘れそれしか見えなくなる。常識や外聞なんかに邪魔されない。そんなものでなければならい。

「なんで結婚したんですか?」

と先日梶芽衣子に聞かれた。

「笑顔が可愛かったから」

とぼくは答えた。

これは本心だ。
梶芽衣子は茶々もなく笑って頷いて言った。


クロポトキンっていますよね、ロシアの革命家の。彼はね、"アナーキストとは何か"という問いにこう答えたらしいんですよ、『腹が減った友のためにパンを盗む、それがアナーキストだ』って。なんかそれを思い出しちゃいました。」


彼女はとても賢い女性なんだと再認識した。犬の生活ができず、些細なものに理由を付けたがる。だからきっと幸せになれない。