ラスくんのこと

小学校からの友人の一人に「ラス」というあだ名のやつがいる。

中学時代、彼は自転車の無謀運転中に時速70キロで走るワゴン車に轢かれた。
高校時代、彼は自宅隣のマンションから二度飛び降りた。
大学から大学院時代、彼はヘリウム自殺を図り、ぶら下がり健康器具で首吊りも行った。

彼にとって幸か不幸か、それらは軽い怪我程度で済んでいる。自殺はすべて未遂に終わった。
何度死にそうになっても生き残った男、帝政ロシア末期の怪僧ラスプーチンにちなんで、いつの頃からか彼は「ラス」と呼ばれるようになった。

高校を卒業してからというもの、数少ない友人たちとは疎遠になったが、ただ、ラスくんのお見舞いだけはみんな顔を揃えた。

「お前の未遂が同窓会の合図だな」

とみんなで軽口を言って笑った。

ラスくんは相も変わらず「死にたい死にたい」と言いながら今日も生きている。ぼくらのなかにはボンヤリと「彼は自殺を成就できない」という確信めいたものがあるからか、或いはただ神経が麻痺しているだけなのか、親友の自殺未遂という出来事を真剣に考えることなどない。ラスくんの自殺未遂は、毎回笑いの種として消費されている。

沖縄の太陽をさんさん浴び、給食をもりもり食べ、ガジュマルの木にぐんぐん登り、その隣で一緒に木に登ってた親友がまさか鬱病になるなんてな笑

「末期の病に侵されていて日々心身が苦しい」
「多額の借金を抱え先が見えない」
「大切な人に裏切られた」

等々の、視覚的理由での自殺なら、ぼくらだって同情するだろう。泣いてしまうかもしれない。
「それでも死んじゃダメだよ」
などという優しい言葉を彼にかけるかもしれない。

しかし、ラスくんの死にたい理由というのが、いかにも哲学者や文学者のそれといった感じの代物で、ぼくらには理解できない。

恍惚とした表情で、難しい文献を引用し、講談師の十八番のように得意げに死にたい理由を語る彼を見ていると、同情の欠片も湧かない。毎回滑稽だと思いながら聞いている。

頭の悪いぼくらは、ラスくんの言う浮世離れした、抽象的な、極めて哲学的な「生きることの辛さ」という地に足のつかない思想を理解できていない。

先日ラスくんと久しぶりに会った。

「自殺したくても自殺できないって、ラスプーチンというよりはワンピースのカイドウだよな」

と言ったら彼はとても不快そうな顔をした。

自殺という崇高な行為を、少年漫画で喩えるな。ラスプーチンという言葉の持つ陰鬱さ、おどろおどろしさ、想起される荒涼としたロシアの大地。自殺とはそういうもので喩えないといけない。

みたいなことを言われた。

自分勝手なのは百も承知だが、一緒にこうして楽しくバカ話できるのも生きてればこそ。死んでこの関係までも否定してほしくない。

みたいなことを言って喧嘩になった。以来彼とは顔を合わすたびこの話をしている。Twitterでも月一でこうしたリプのやり取りを交わす。

大学院博士課程のラスくんは、さすが象牙の塔の住人というもので、一日中本ばかり読んでいるような人間だ。「死にたい」という感情に理由をつけるため、熱心に本を読み哲学をする。四六時中そんなことをしている人間だから、その理論武装は完璧だ。(その情熱を持ってなんで生きることができない、と毎回思う。)

対してぼくはというと、薄い宗教学と感情、そして常識でしか「死に至る病」に対抗できなかった。哲学vs生活者の声 みたいな形だ。彼とのやり取りは議論とは呼べないのかもしれない。

ぼくも昔は本を読む方で、死にたい彼に寄り添うような人間だった。それが今や自殺を否定する生活者だ。どこまでも純粋で聡明で賢く生きれないラスくんを、最近は疎ましく思う。