クソでか主語語り

「おれはな」と語るかわりに「人生とは」と語る。
「元カノがさ」と語るかわりに「女ってのは」と語る。
「こういう辛い思いをした」と語るかわりに「社会は間違ってる」と語る。

デッカイ主語で語る、そういうのは教養のなせる技だと思う。中公新書の「教養主義の没落」という本にも書いてあった。会話の抽象度と教養は比例するとかなんとか。

人間の人生は80そこらと短い。その間に経験できることなんて限られている。経験則から語る帰納法には限界がある。それに比べて何千年という歴史を下地に持つ哲学、宗教からなる演繹法は偉大だ。

一切皆苦」→「だからおれの人生も苦しい(苦しくなっても仕方がない)」
「女はクソ」→「だからアイツやアイツはおれを裏切った(そういう要素を内在してたのだから仕方がない)」

悩んだとき答えをくれる。未経験なことでも、これら叡智に当たれば的確な対応が取れる。
「俺も母子家庭で苦労したんだけどさ〜」
と訳知り顔で自分の矮小な経験論からアドバイスしてくる大人の100倍くらい教養は役に立つ。人生の指針になることは間違いない。

……のはずだが、先日友人とご飯を食べたときの、友人に対するぼくの態度が経験論アドバイスおじさんのそれだった。
彼の「人生とは」みたいなデカイ主語の話にすぐに茶々を入れ邪魔し、ひたすら「君は〜で〜だっただろ?おれは〜のときは〜で乗り切ったもんだよ」と自分語りをする。
なんなんだこれは。帰りの電車はずっと反省会だった。

気づけばぼくは目の前のパンのみに生きるロードー者で、「ぼく」と「きみ」の主語でしか物事を語れなくなってしまっていた。
学生時代に燃えた共産革命なんてもうどーでもよくなってしまっている。ただ自分の生活だけが愛おしい。
神話を謳うワグナーよりも、「俺」と「お前」の世界を歌う湘南乃風の歌詞に共感を覚える身体だ。

ブログを書くのだってそうだ。不特定多数に向けて書いているというよりは、妻だったり、元カノだったり、死んでしまった友人だったり、特定の個人に向けて弁解を書いている。