さよなら平成インターネット

ぼくは平成2年生まれ。小中高とインターネットに恋焦がれていた。

 

 

何度か書いているが、ぼくがインターネットに自由にアクセスできるようになったのは20のとき。上京してからのことだった。

 

郷土沖縄で過ごした20年間、その間はパソコンはおろか携帯すら持っていなかった。

 

これは昭和生まれのおじさんの話ではない。ぼくの高校時代は2007年~2009年。多感な思春期、GReeeeNだとか青山テルマだとかが流行っていた時代を、携帯もパソコンもなく駆け抜けた。

 

オタク過ぎて携帯が欲しくなかったとか、そういうわけじゃない。家が貧乏だから携帯買ってもらえなかったとか、そういう話でもなければ、沖縄にはまだ電気が通てなかったという話でももちろんない。

 

「ガキが携帯とか生意気だ」

 

「パソコンをやるとオタクに拍車がかかる」

 

という理不尽な理由で、父がどうしてもぼくの携帯の所有を認めてくれなかったのだ。

 

1学年200余りの学友たちの中で、携帯を持ってないのはぼくと熱心な創価学会員の家庭の子だけだった。生活保護の家庭ですら子供に携帯は与えていた。

 

そんな感じだったので、ぼくは当時から少し周囲から浮いていた。

「あいつに連絡しようにも家電にかけなきゃいけないとかねーわw」

という感じ。まあそうなるわな。

 

携帯もなければパソコンもない。ぼくが好んだメディアは図書館で読む雑誌類だったり、深夜ラジオだったり、地域の名画座だったりで、限られた情報にしかアクセスできない。

 

情報源が偏れば偏るほどオタク度は増す。

気づけば父の目論見は外れ、厳しい環境をバネにオタ活に勤しむ限界サブカルオタクが誕生してしまった。

 

昭和60年代のサブカルオタクの生態を書いた「グミ・チョコレート・パイン」という大槻ケンヂ私小説があるのだが、平成20年代を生きるぼくの思春期はまさにあれだった。

 

「この、映画秘宝EXで特集されている『恐怖奇形人間』っていったいどんな映画なんだろう…みたいなぁ」

 

学校の休み時間、誰も来ない図書館の奥でペラペラと持ち込んだカルト映画雑誌をめくりながら手持無沙汰な時間をつぶす。

 

「音響も悪いけどさ、なんかメッセージ性もないよな。ニルバーナの10番煎じって感じだ。Smells Like Childrenってか」

 

後夜祭の打ち上げ、舞台で演奏する同級生の学生バンドの演奏を聴きながら、誰に話すでもない独り言をぽつりと虚空に投げる。

 

筋肉少女帯が好きで、石井輝男映画を愛し、ラッシャー木村を尊敬していた。そんな高校生、友達がいるわけもなく。唯一仲良くなったのは、例の、携帯を持っていないつながりの創価学会員くらいだった。

 

 

強がりを何度も自分に言い聞かせる。

 

「ぼくの趣味は異端だ。沖縄みたいな同質化圧力が強い限界田舎で、同志に出会えるなんて思ってはない。

いまどき、筋肉少女帯が好きな同世代なんて、1000人中1人でもいればいいほうだ。その1000人中の1人をこの学校の中で見つけようなんて馬鹿なことぼくはしない。

東京に出たら変わる。インターネットができれば変わる。

都会には、パソコン画面の向こうには、何千万という人がいて、何万人もの同志がいる。孤独なのは今だけだ。」

 

 

孤独なのは今だけだと言ったのが、浪人に浪人を重ね、学生時代より孤独な宅浪生活を2年も余儀なくされた。

 

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当時の孤独な生活についてはここで詳しく書いている。

 

 

東京、東京と言ってたのに、結局八王子の中央大学に入学してしまった。

 

 

それでもようやく20で上京!パソコンも携帯も手に入れて夢のインターネットライフだ!

のハズだったのだが、上京したころはもう鬱病の塊みたいになっててしまって、それどころではなかった。

 

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パソコンはエロビデオを観るぐらいにしか使ってなかったし、携帯は連絡を取る相手もなく、ガラケーだったということもあり、2ちゃんねるを見る以外にはまったく使ってなかった。

 

上京してもやはり友達もできず、だれも話し相手がいない。そんな中で楽単情報を集めるのに頼ったのが2ちゃんねるの大学生活板の新入生スレッドだった。

 

そこでは、ぼくと同じように孤独な大学生同士が情報交換を行ったり、ぼっち煽りを行ったりしている。大学生だけではなく浪人生や卒業生が入り乱れ、血で血を洗う学歴談義が繰り広げられている。

孤独なぼくにはそこの喧騒がなんとも居心地がよかった。

 

キャンパスライフと聞いて思い浮かぶ記憶の中のぼくは、きまって黒い折り畳み式の携帯で2ちゃんねる大学生活板を見ている。

 

 

 上京して半年も経つと、孤独な大学生活に慣れてきて生活に余裕が生まれてきた。インターネットの使い方にも慣れている。当初の志に立ち返り、インターネットで同志を集うことにした。

 

そのときに利用したのがこれまた2ちゃんねるの「定期オフ板」だった。当時、「太陽の塔」に始める森見登美彦の一連の作品が好きで、書生文化というものにハマっていた。そういうわけで、「書生」というものにジャンルを絞り、参加した人生初のオフ会がこれだった。

 

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自分と近い趣味趣向、考えをもった人間がこれほどいるのか、ということに驚いたし、そのなかでもぼくが一番非リアな学生生活を送っているという事実にも驚いた。

 

「きみが孤独なのは偏った趣味のせいではなく、単に社交性がないだけだ」

 

ぼくと似たような暗い趣味を持ちながら、彼女を持っている人がいたり、大手商社から内定をもらっている人がいたりして、ぼくはなんだかそう言われたような気がした。

 

 

この時期に前後して始めたのがツイッターだった。

最盛期には1日10時間ぐらいやっていた。

ツイッターを始めたきっかけは、当時好きだった女性がやっていたのを見て、彼女とコミュニケーションを取るために始めたとかなんとか。

今思えばふつうにきもい。

 

SNSはすごいなぁ、と心底思った。

電話やメール等の1対1のコミュニケーションとは違い、本当に些細な事、何を食べたとか、テレビの感想とか、街の匂いだとかを、ブログ以上の気軽さでぽんと不特定多数に投げることができる。

 

普段何を考え、どういう人たちと交流し、どのように生活しているのかが手に取るようにわかる。こうしたストーカー的な楽しさは、ともすれば趣味だけでは測ることのできない人として同質性をも、手に取るように「わかった気にさせる」という怖さでもある。

 

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寺山修司を愛し、「人生は一片の詩だ」と言い切り、TwitterInstagramを巧みに活用し日常を退廃的なコンテンツとして脚色する、そんな彼女のSNSを追っていると、「こんな遠くの世界に行ってしまったんだ」と嫉妬心でめちゃくちゃになってしまう。

 

会って話す分にはふつうの女の子なのだが、SNS上の彼女はサロメのような妖しい美しさで輝いていた。

結局ぼくだけが疲弊したの恋だった。

 

「ネット上でも同志はいない」

 

と気づき、インターネットに甘いロマンスの響きを感じなくなったのはこのころから。

 

 世界の人と繋がれるインターネットと言えども、画面の向こうにいるのはクラスメイトたちと変わらない人間なのであり、人とうまくやっていけない以上はネットの人相手でもやっていけないのだ。

 

少しずつ無理をして、周囲と折り合いをつけていくことで大人になった。ツイッターでも積極的に自分の弱さを晒すことで、無理のない人間関係が築けた。

 

インターネットにロマンを感じなくなった反面、ぼくの生活はよりインターネット、ツイッターにのめり込んでいくようになる。

 

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ツイッター上では、無能のポンチ絵みたいな男「ぽきた」になったつもりで、つまらない自分の日常を自虐的に切り取って発信するのが楽しかった。

 

平成25年から26年、学生時代の後半はツイ廃というやつで、四六時中ツイッターをやっていた。リアルでは誰とも話さず、ネットばかりで饒舌になる。むなしい日々だ。

 

 

ツイッター熱が冷めたのは平成27年、社会人になってからだった。

働くようになり、大好きな彼女ができ、日常生活においてなんら自虐するところがなくなった。ツイッターで露悪的に晒すべき影が身辺から一掃されたのだ。

 

「こんなアカウント彼女に見られてもまずいな」

 

何度かアカウントを消すと再開するを繰り返し、徐々に徐々にツイッターから遠のいていった。

 

そんな好きだった彼女とも平成28年を迎えるのを待たずして別れてしまった。

諸行無常

それからはツイッターではなく2ちゃんねるに回帰した。

場所は2ちゃんねるの中でもより極悪な気持ち悪さを誇る「定期オフ板」。

 

自暴自棄だったんだと思う。

 

 

平成28年、当時はTinderやPairsといったマッチングアプリ全盛期だった。マッチングアプリと言えば聞こえが、言うなれば出会い系だ。インターネットを介して男女が出会ういかがわしいツールでしかない。

しかしマッチングアプリはそれまでの出会い系のイメージを一新させ、広く同世代の男女が使った。Facebook連携機能により、出会う前から相手の素性や顔がわかる、という点が、「清潔で安全な出会い系」として女性受けしたのだ。

 

世はまさに猫も杓子も「マッチングアプリ」という時代。

そんな時代において、人との出会いのツールを、2ちゃんねるという終わった掲示板にある、最も終わった板である「定期オフ板」を選ぶ人たちの存在が気になった。

そういった感性の持ち主なら、何も気兼ねなく仲良くできるのではないか、という淡い期待もあった。

 

 

平成28年から平成30年まで、2年くらい定期オフ板を見続けた。

LINEではなくGmailで連絡を取り合い、会った人が男1人、女2人の計3人。そのなかでも、最後に出会った人こそ、まさしくぼくが求めていた運命の人だった。

 

千代田区住まいの公認会計士。同い年で綺麗な女性だった。

趣味や生き方がぼくと瓜二つで、顔面偏差値がいくぶんか高いことを除けば女版ぼくだ。

 

 

古本屋に行くのが趣味で、初めて会った日も「なんとなくあげる」と茶色に日焼けした夏目漱石の「坊ちゃん」をぼくにくれた。

相手の程度を測るには完ぺきなジャブだ。

 お互いの限界みたいな中高校生活の話で盛り上がり、その日のうちに打ち解け合った。

 

彼女の感性でわからないことは何一つなかった。

 

 

彼女と2回目に会ったとき、二人カラオケで朝まで歌い明かした。ぼくがグルグル映畫館を歌うと、「それなら白塗り系関連ということで」と彼女はMALICE MIZERを歌った。

ぼくが筋肉少女帯が好きだと知って、「夜歩くプラネタリウム人間」のデュエットに誘ってくれた。二人で勇者ライディーン絶唱した。

 

 

「16、17の坪内~!見てるか!お前、ついに同志と出会えたぞ!しかも女!女とマリリンマンソンをデュエットしているぞ!!!」

 

 

後にも先にもあれほど分かり合える人とはもう出会えないと思う。

 

「Tinderとかあるのにさ、なんでよりにもよって定期オフ板なの?」

と聞くと

「限界みたいな人が好きだから」

と彼女。どこまでもぼくだった。

 

 

当時ぼくには湘南台に住む付き合って1年の彼女がいた。ぼくは湘南台千代田区を行き来していたことになる。

 

 

ある夜、湘南台の彼女の母親が自殺未遂をした。

 

静岡の実家、10階建ての建物からの投身で意識不明の重体。

彼女のもとには祖母からその一報が入ってきて以来、電話をしても音信不通で続報がない。静岡の実家に行こうにも終電はとっくのむかしに終わってて動きようがない。

 

ぼくはタクシーで湘南台の彼女のもとまで駆け付けた。

 

泣いてばかりの彼女。

泣きながら鬱病である母親への愚痴をぼろぼろと零す彼女をなだめるため、ぼくは彼女を外に誘って、夜通し湘南台の街を歩き続けた。

 

親がそうした事情で危篤状態になっている人にかける言葉がない。

 

長い間沈黙が続いた。頭上には空気が読めない星々が満天に輝いていた。

 

「そうだ、星座の話をしよう」

 

とぼくは思った。

 

 

筋肉少女帯の歌で「星座の名前は言えるかい」という歌がある。

かなしくてやりきれなくて自殺を考えている少女に、男が「"でも"きみ星座の名前は言えるかい?」「"でも"きみマジシャンの名前は言えるかい?」と問いかける歌だ。

 

自殺することと、星座の名前が言えることに何の繋がりがあるのか。

”でも”の意味が分からない。

それがこの曲のミソだ。

 

「大変だな…うんうんそうなんだ…苦しいよな。」

 

と共感ばかりを示すのではなく、

 

「おれも大切な人が自殺未遂をしたことが…」

 

と張り合うでもない。

 

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「苦しいよね…でも星座の名前は言える?」

 

と話題のピントを苦しみから外すことで、少しでも相手の悲しみを和らげようとする不器用な人の歌なのだ。

 

一番いい対応は、とにかく共感を示すことなんだけどね。

 

 

「ねえ、見て。星。」

 

ぼくは満天の空を指さす。

 

「ユミって星座の名前とか知ってる?」

 

「知らない。あなたは知ってるの?」

 

「知らない。なんだろうねあの星座の名前」

 

「私の前の彼氏は星座に詳しくていろいろ教えてくれたんだけどね。あなたは知らないんだ」

 

「……うん、ごめん」

 

「坪内さんは中学受験とか経験してないよね?彼中学受験の際に覚えたって言ってたな」

 

「……………………」

 

「でもさ、星座の名前とかそんなのどうでもよくて、一番輝いている星指さして、『あれがふたりの星、ツボユリ星だよ』なんて言い合うくらいがちょうどいいの。女ってそんなもん」

 

その一言にやられた。

 

 

 

後日、「実はぼくの母が危篤で……」という話を千代田区の彼女に話した。

 

「いいことありますよ」

 

とか

 

「私と出会えたことが好機ですよ」

 

とか言ってくれた。彼女の伝えたいことが100%にわかる。だからこそあまり響かなかった。彼女の言ったことでわからないことは何一つなかった。

 

だからこそダメだったんだと思う。

 

 

 

インターネットを使えば、マニアな趣味はおろか生き方まで瓜二つなドッペルゲンガーに出会うこともできる。クラスはおろか沖縄中を探したって、こんな女性に出会うことはできなかったと思う。

でも、それだけじゃダメだった。

 

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思春期のころ、ぼくはインターネットに憧憬を抱いていた。

 

実際のところ、インターネットを通じて行ったのはエロビデオやアニメの違法視聴ばかりだった。

 

ここに書けない、まだ整理できていない話があるから、「平成インターネットとは~」なんて結論めいたことは書けない。略歴だけでこの話は終わる。

 

 

令和3年には30歳になるぼくは、ブログもツイッターも含めて「もうインターネットなんて辞める」が口癖になっている。けど、どうせ辞めれないと思う。

 

 

みなさん、平成インターネットではお世話になりました。

 

 

引き続き令和インターネットでもよろしくお願いします。