君の陰湿を見せて②

 首を縮めたくなる程の寒風吹く冬なのに、オフィスは春の陽だまりのように暖かかった。先月下の階にシステム管理課が入ってからというもの、空調をつけていなくてもこんな感じだ。

 

 

無数のコンピューターの排気がその原因らしい。夏になったらどうなることやら。簡易的に作られた女性用のロッカールームでトレンチコートを脱ぎながら結は思った。

 

 

「おはようございます」

 

 

 首にふんわりと巻きつけられていたであろう、キャメル色のマフラーを片手に持った恵梨香が、隣のロッカーについた。

 

戸裏に付けられた特設の全身鏡で、職場コーデの最終調整をしている。

 

 

「おはようございます」

 

 

「結ちゃんって京浜東北線だっけ?」

 

 

「はい、東神奈川からはそうですが」

 

 

「こっちは恵比寿からりんかい線なんだけど、痴漢騒ぎで遅延して大変だったのよ」

 

 

「痴漢……ですか」

 

 

 結はいつもは締めないカーディガンのボタンを留め始めている自分に気づいた。一瞬手が止まる。恵梨香はこちらの動揺なんて気にも留めないようで話を続けた。

 

 

「そのバカホームから線路に逃げたらしく、そのせいでこっちは20分もすし詰め電車に閉じ込められたんだから。周りオヤジばっかだし息苦しくて大変だったのよ。」

 

 

「朝からそんな大変なことがあったんですね。」

 

 

 線路に降りてまで逃げる、それは並の覚悟では出来ない。そこまでのリスクを犯して、男の人は女性の体を触りたいものなのだろうか。

それとも、それは例に言う冤罪で、そうした罪の疑いをかけられるのをよしとしない男の潔癖が、そういう行動に走らせたのだろうか。

 

 

恵梨香は話相手が結では物足りない、と言った感じで、調整そこそこにターンを切ってロッカー室を出ていった。

 

 

 麗奈や夏美のところに行くのだろうか、とフレアスカートをたなびかせる後ろ姿を見送って結は思った。

 

「その変態マジムカつくね」

 

とでも言ってあげたらよかったのかな。

 

 

 

以前、彼女たちが人身事故の死亡者についての文句で盛り上がっているのを見たことがあった。以前、というか人身事故で遅延がある朝は毎回のことだ。

 

 

「死ぬなら人に迷惑かけずひとりで死でほしい」

 

 

まつエクした可愛い目で、よくそんなことが言えるなぁ。と結は思った。

自殺、文字通り命懸けの人生への抗議行動なんだから、遅延ぐらい大目に見てもいいではないか。

 

 

痴漢はだから卑怯なんだ。

結は思う。行為者の職や家族、その後の人生を賭した一世一代の出来心、そんなものを気軽にホイホイ「痴漢です!」なんて報告できるわけがない。

 

 

その一言の後続には彼の人生の甚大な損失が控えている。冤罪なら言わずもがな、冤罪じゃなかったとしても、彼の人生と大きな交わりを持ってしまう。彼の人生に大きな傷跡とともに自分の名前を刻んでしまう。そんなところに私は自分の生きた痕跡を残したくない。

 

声を出して「痴漢」と訴えるのはその場だけではない、その後の覚悟も必要とされるのだ……、っと思ってしまうのはただの考え過ぎか。

 

 

結のクリーニングしたてのブラウスは、紺色のカーディガンに埋もれながら、ただ襟だけをもってその白さを訴えていた。

 

 

 

収納係の島には、係長と恵梨香しか席に着いてなかった。2名の男性職員は育児の時短勤務で、岡本麗奈は換価係の西口夏子といっしょに課長席を取り囲んで談笑していた。

 

結は自席にハンドバックを置き、出勤のICカードをタッチしにカードリーダーのある課長席に向かった。

 

 

「おはようございます。」

 

 

「おはよう。柏木さん昨夜の事件見た?」

結の挨拶に課長の松本が応える。

 

 

「昨夜の…ですか。」

 

 

「◯◯市のテロ事件よ。あそこ私も松本課長も留学中はよく行った公園だったからショックでさー。」

 

 

いつになく勝ち気の黒い瞳をぱちくりさせて岡本麗奈が言った。その口元は微かな笑みを浮かべていた。

 

麗奈は口癖のように海外留学の思い出話をすることころが以前からあったが、松本が赴任してきてからというもの、それを共通点として強調するかのように、その話をする頻度が更に上がっていた。このことは、部内では陰で笑いのネタになっていた。

 

 

松本は官費での修士課程取得留学なのに対し、麗奈は3ヶ月の語学留学。周りではそれを嘲る陰口も聞こえたが、その小さな共通点を突破口に、なりふり構わず奮闘する麗奈の姿が結には心地よいものに映り嫌いになれなかった。

 

 

「私も◯◯市に住んでる従兄弟に電話しちゃった。向こうじゃ感覚が麻痺してるらしく、みんな意外と冷静みたい。痴漢騒ぎでの遅延が一大ニュースになる日本ってほんと平和よね。」

 

 

相変わらず夏子は頭の回転が早いなぁ、と結は思った。マウンティングに上手く応え、不利な話題からの脱出口を鮮やかに作ってみせた。

 

 

「柏木くんはその事件知っている?」

 

 

体を結の方に向け松本が聞いてきた。繊細な糸を使った、高級感のある外国製の背広を着て、それが嫌味にも気取りにも感じさせないところが流石だと結は思った。

 

 

「その…事件ですか。」

 

 

ここでいう”その”とは何だろうか。昨夜のテロ事件のことだろうか。それとも今朝の痴漢遅延の話なのだろうか。

 

 

「寝坊したもので、よくわからないです。」

 

 

と答えてそそくさと自席に戻る。

 

 

ぶっぶー、残念でした。昨夜のクイズ「職場のみんなはテロ事件のこと、話してる?話してない?」正解は「私以外みんな話してる、でした。」

 

 

松本の影響力を考慮に入れることを忘れていた。

 

 

 

 自席に着くと、ゆるくカールされた前髪を撫でながら、ツンとした声で恵梨香が言ってきた。

 

 

「キャリアってそんなにいいものかな。どんだけ進んだってせいぜい1000万台だし、それに所詮は公務員だよね。」

 

 

「松本課長ってモテてるよね。」

 

 

「麗奈も夏子も普段ニュースなんて見ない口のくせに、松本課長の前ではああなんだから。」

 

 

恵梨香の、課長席に投げられたあからさまに侮蔑めいた視線に気づきドキッとする。

松本たちの方に目を遣ると、いまだ楽しく談笑中。こちらの目線には気づいてないようだった。

 

 

「区役所にいたら、32歳課長でも『天から降ってきたエリート様』に見えるのかな。」

 

 

課長席の一団に変化なし。さらに大きくなった恵梨香の声も、課長席には届いていないらしい。

 

 

「公務員の妻なんかに、私はなりたくないな。」

 

 

これらの声はしかし、隣の係長席には届いているに違いなかった。西田誠係長、48歳独身。

西田の、出世欲があるのかないのか分からないけど、淡々と仕事をする姿勢は、結は好きだった。

 

 

プレイヤーとしては一流なんだけど、管理職としてはイマイチ。恐らくこれ以上の出世も、そしてお世辞にも冴えているとはいい難いその風体で、アイドル好きとの噂のその身の程を知らない面食い気質で、恐らく今後の結婚も望めない彼に、いまの恵梨香の言葉がどれだけ刺さったのだろう。

結は少し申し訳ない気持ちになった。

 

 

 

 8時30分、始業を知らせるチャイムが鳴り、麗奈、夏子が自席に戻った。結はイントラ端末でメールの有無を確認した後、税務端末に切り替え、収入異動処理業務に取り掛かった。

 

 

品川区役所総務部税務課収入管理係、これが結たちの所属する部署の正式名だ。仕事の内容は税に関する金融機関との連絡調整業務や税務端末における債権データベースの運用管理、税額変更や納付書・督促状による二重払い等のときに発生するいわゆる”過誤納金”の還付・充当業務、など多岐にわたる。

 

恵梨香の言葉を借りれば「お局みたいな部署」。

 

地味で地味でひたすら地味で、ただ内部処理の事務作業、他部署での事務誤りの指摘に特化した部署だ。

 

 

税務業務は、住民税係、固定資産税係等の『課税』に始まり、その税金が納税係の『徴収』を経て区のお財布に入ってくるまでが一連の流れとなる。その流れの最後の最後、「お財布に入ったお金が本当に正しいものだったか」について扱うのが収入管理係の仕事となる。

 

 

一連の過程で、課税課の誤りを発見したら課税係に訂正の処理を依頼する、納税係の怠慢に気づけば、事務処理を急かす事務連絡を出す。

 

 

税務業務の最後の最後にしか関わらず、最も骨の折れる納税者対応をすべて他部署に投げるくせに、偉そうに現場のミスを指摘するこの部署の業務を、結はあまり好きではなかった。

 

 

 

 

 机の上に、先日特別区民税係から引き継いだ過誤納連絡票の束を広げた。400枚くらいあるだろうか、その紙一枚一枚に『住民税・特別徴収分』で発生した過誤納情報が法人ごとに書いてある。B4ヨコ書き、薄緑色で縁取られたフォームの紙面に、黒字で法人名と過誤納額―納めすぎた税金の額―が、特別区民税係手書きの赤字で、その過誤納額の還付対象者名が書いてある。

 

 

収納管理係の仕事の一つ、納税者に納めすぎた税金を還付する「過誤納処理」の仕事だ。

 

 

結が担当する住民税・特別徴収―通称”給与特徴”―という税金は、その他の住民税・普通徴収や固定資産税とは異なり、納税者が納めすぎた税金、つまり過誤納金の還付対象者が必ずしもその納入者である法人とは限らない。なぜなら、その納められた税金は、元は言えば従業員の個々人の給与から天引きされたものであり、法人はそれを取りまとめて納入しているだけだからだ。本来、徴収されすぎた住民税はその本来の納税者たる従業員個人に返さなければならない。

 

 

 従業員が過去の年度分の所得税の申告をすると、それに伴いその年度分の住民税の額が減少することがある。こうして発生した、その年度分の住民税の過納金は、その所得税の申告をした従業員の債権ということになり、その人個人に還付しなければならない。

 

 

しかし中には従業員個人ではなく、法人に還付をしなければいけないときもある。それは、本来法人が払うべきではない“辞めてしまった従業員”の住民税を、誤って支払っているケースなどである。こうして発生した、その住民税の誤納金は、納入する必要がないものを誤って納入していた法人の債権となり、その法人自身に還付しなければならない。

 

 

前者は申告に伴う税額変更によって生まれる「過納金」と呼ばれ、、後者は法人の納入ミスによって発生する「誤納金」と呼ばれる。これらふたつを合わせて過誤納金と呼ぶのであるが……

 

 

 2年前、収納管理係に配属された初日に西田係長から受けたその説明を、結かはまったく理解できなかった。そして、3年目の今もよくわかっていない。ただ、税務業務とは他も概してそうであるように、毎日同じことの繰り返し、マニュアル業務と言うやつなので、よくわからなくてもだいたい務まる。これは効率化を求めるがあまりの、縦割り行政の副作用と言えた。

 

基礎自治体と呼ぶにはあまりにも膨大な住民数、大きすぎる権限。これは果てしない事務量を抱えた特別区に顕著な傾向だ。

 

 

 部署は業務に応じて細分化しており、企画部署と実務部署は明確に分かれている。収納管理係は実務部署に当たるため、ただひたすらマニュアル通りに事務をこなすことが求められている。こうしたマニュアル業務は何も考えていないロボットを作り出す。

 

いや、最近のロボットには学習機能が付いているのもあるから、ロボットと言えば語弊がある。松屋の自動販食券売機と言ったところか、と結は思う。人の頭から、自分でものを考える回線を取り外し、ただ企画部署によって作成されたメニュー表に従って注文通りの食券を出す。結はこういう脳死的な単調業務は好きではなかった。かといって、嫌いでもない。ややこしいことは考えずに済むし、正確に注文通り動いていれば怒られることもない。

 

 

 プレミアム牛丼の並盛りが一つ、次のお客様は牛カルビ定食のご飯大盛りが一つ…。法人名、過誤納額、還付対象者、過誤納連絡票に記載されたこの3点を素早く目で捉え、その処理を税務端末に入力し、次の一枚へとめくる。一枚の過誤納連絡票あたり10秒のペースでやれば、お昼前にはひと段落つける計算だ。きらきらと慄える黒髪を耳のあたりに留め直した。

 

――AIが本格導入されようなものなら、この部署ごと取り潰し。私たちはきっとみんな失業者になる。

 

 

 

 

 目の前の書類の山が5分の4ほどになったとき、時短勤務で保育園への送迎を終えた男性職員二人が仲良く出勤してきた。ふたりのお子さんは同じ保育園だという話を前に聞いたことがある。

 

 

結は血管の浮くような細い腕に付けた安物のぺらぺら時計を見た。

もう9時半前か。

これで収納管理係5人全員が揃った。妊娠休暇中の職員を含めると正しくは全6人だが。向かい側の、税務端末以外何も置かれていない真っさらな瑞希の席を見て結は思った。

 

 

 収納管理係は裏では”子育て部署”と呼ばれている。

その他の部署に比べて業務に余裕があるため、妊婦や育児のための時短勤務者が多く配属されるからだ。上から「なかったら困るけど、それほど重要ではない部署」として見られている証拠だ。

 

 

「仕事なんてただの飯の種だよ。」

 

 

 それが恵梨香の口癖だった。仕事はあくまでも生活の糧であり、自己実現をアフター5の異性との交流に求める。そんな恵梨香にとってはこの部署はピッタリだろう。時短組もそうに違いない。

 

 

男の育児勤務、という制度はあれど、利用すれば人事上傷がつくと聞く。それをためらいもなく利用するんだから、きっとアフター5の家族との時間を優先したのだろうな。

 

問題は48歳独身、おそらくプライベートも充実してないであろう、真面目だけが取り柄の西田係長だが……。

 

 

 

結のキーボードを叩く白い指が止まった。

 

「これで3件目だ。」

 

 結のデスクの上過誤納連絡票の束は3つに分けられている。これから見る未処理なもの、処理済みなもの、処理不明なもの。処理不明なものに分類されている3件はとも理由は同じだった。どれも還付対象者の名前が書かれていないのだ。これでは従業員個人か法人、だれにお金を返せばいいかわからない。

 

 

白いレースの襟口のホックを一つ留め直す。

 

 

「斎藤」

 

 

右上にある特別区民税係担当者決裁欄には、すべて同じ職員名の印鑑が押されていた。

 

 

 

 

 結たちが所属する税務課は、大手生命保険会社の名前が冠されたビルの8階に入っている。全8階建てのそのビルは、1階から5階が区役所の税務関係、6階から7階が総務局のシステム関係、そして8階が収納管理係と納税係と、区役所の一棟借りによりまるまる庁舎の様相を呈していた。

 

 

本庁舎建て替えの影響により、離散した一部の本庁部局を集積したためだ。その前は金融機関や旅行代理店、クリニック等が入っていたというこのビルは、壁の大半がガラス張りでとてもスマートな明るい造りになっていた。湿っぽさや、ところどころに見える打ちっぱなしの鉄筋が陰鬱さを醸し出していた今は亡き本庁舎とはエライ違いだ。

 

 

エレベーターに貼られた新庁舎のこれまた湿っぽいグランドデザインを見ながら、ずーっとこのままでもいいのになぁ、と結は思った。

 

 

 

 ビルの4階にある特別区民税係は陽射しの入らない部署だった。階段やエレベーターホール、お手洗いにつながる廊下側の壁を除いては、部屋の3辺びっしりにロッカーが配置されており、そこにははち切れんばかりに書類が積み込まれている。せっかくの光源である一面の窓ガラスはフタをされ、閉扉できないほどロッカーに積み込まれた個人情報たちが微弱に蛍光灯の白を反射していた。

 

 

「……たしかに、これはぼくのミスでした。すみません。」

 

 

手渡された過誤納連絡票をキョロキョロと見ながら斎藤優太が言った。

 

 

「3件ともすべて先月分が未納の法人さんのものだから、これら過誤納金はすべて2ヶ月分合わせて納入して来たから発生したもの、ということですよね。」

 

 

「そう、そういうこと。だから処理は」

 

 

「今回の過誤納金はすべて先月分の未納のものに充当する、ですね。」

 

 

「えーっと…はい、それでお願いします。」

 

 

食い気味に応えた結に斎藤は少したじろいだ。だけども、その声はすぐにいつも通り、プールの底で聞かれるような鷹揚としたものに戻った。意識はどこかここじゃない、遠い異国に飛んでいるといった感じだ。

 

 

「今回の不明分はすべて斎藤さんのところでしたよ。こういう処理がうちの部署の時間を取ってしまうこと、斎藤さんもよくご存知ですよね。」

 

 

できるだけ冷たく聞こえるように、父の遺産分割の際に叔父側が立てた弁護士の口調を真似して言った。

 

 

「はい……次からは気をつけます。」

 

 

今度は失敗。斎藤の意識は帰国してこない。

 

 

 

 斎藤有太は今年特別区民税係に異動して来るまでは、2年間収納管理係に所属していた。今年で3年目の結とは2年間同じ係で働いた同僚になる。その期間のうち、結は斎藤と1年間ペアを組み給与特徴を担当していた。業務のイロハは斎藤から教わった。言わば結の師匠筋に当たる。

 

 

彼の第一印象は「弱い人」だった。

年次が低い結に対しても常に敬語で接し、誰に対しても腰が低い。「斎藤は優しいから結さんの指導員に適任だと思った」と西田係長は口癖のように言ったが、それは違う。彼のその態度は弱さの表れでしかないことを、結は知っていた。

 

 

斎藤の感情は蜂に刺されたようにぼんやりと麻痺していて、表出するものと言えば、誰かに話しかけられたときに出てくる「怯え」の匂いがする弱々しい笑顔くらいだった。

 

斎藤先輩は若い頃、作家志望の青年だったんだろうなぁ、と結は初めての頃思っていた。何か大きなものを諦めた人に特有の気だるさ、それが斎藤の中には見受けられた。

 

 

「来月には過誤納のピークが来ます。もし、このような処理が続くようでしたら松本課長名で特別区民税係に事務連絡を出すことになりますので、以後気をつけてくださいね。」

 

 

「はい……以後、気をつけます。」

 

 

松本課長の名が出たその一瞬、斎藤の意識がとんぼ返りの帰国をしたことを、結は見逃さなかった。

 

 

 この頃は18時を回れば、三つ星輝くオリオンが空の東にのぼる、はずなのだが品川の空はどんよりと明るく、星と言えば月くらいしか見えない。工場群が連なる臨海部、その南側の赤々とした空と、地上の下品なネオンの氾濫に彩られた街並み。

 

前世紀の外人が思い描いてたであろう未来都市TOKYO。

結はこの街の夜景が好きだった。

 

 

しんしんと冷える冬の夜道は映画のワンカット。なよなよと締まりのない脚を、鋼を入れたように緊張させ歩く。赤々と灯る民族系焼肉屋の電光が頬を染め、後ろが長く割れたトレンチコートは、脚の動きと北風でときどきバレリーナのチュチュのように翻った。

 

 

 駅前交差点での信号待ち、ネパール人の女に声をかけられた。カンボジア人かもしれないが、この際その区別は重要ではない。押し付けられるように渡されたカードケースのなかには、毎度お馴染み、ネパール人の小さな女の子が微笑む写真があった。「どうして男の子の写真じゃダメなんだろう」と結は考えた。きっと男の子の悲哀じゃストーリーが弱いんだろうなぁ。フェミニズムが大成した日本も未開のネパールも、それは変わらずか。ぼーっと考え込んでいる間、女は片言の日本語で学校建設の重要性を結に訴えていた。歩行者信号が青になる。「すみません興味ないです」と軽く頭を下げカードケースを返し、そそくさと横断歩道を渡った。

 

 

 彼女らは決まって断ることができなさそうな、弱そうな人たちの匂いを嗅ぎ取り話しかけてくる。彼女らに話しかけられるか否かが、厚顔になっていないか、どうかのリトマス紙だ。お役所勤めの3年目26歳、私はまだ大丈夫らしい。結はほっと胸をなでおろした。

 

 

前に斎藤がネパール女に捕まっているところを見たことがあった。強く断りきれなかったからか、それともその怯えの匂いを嗅ぎつけられてか、ネパール女は斎藤から離れず、ふたりは交差点を越え、商業施設を越え、大井町駅へと消えていった。

 

きっと御一行様は、多摩川を越え、天竺を越え、遠くは斎藤の最寄り駅、新百合ヶ丘まで行ったに違いない。ネパール女の訴えに押し負けて、しぶしぶお金を出す斎藤の姿が結にはそれが容易に想像できた。

 

 

「今日ぐらいは2駅歩こうかな」

 

 

と結は思った。少なくともあの駅は越えよう。アスファルトが鉛筆で光らせたように凍っている。キリキリと吹く北風が冷たい。強がっても、結局は痴漢程度で傷を作る。結は、自分がまるで血の通っている人間にように感じられて悲しかった。異常者のフリをしても、所詮頭も体もただの女でしかない。それが嫌だった。

 

 

雪は降らなかったがとても冷える夜だった。