しなのさんは嘘つきだ。
彼は嘘をつく。それは「誰かを騙して得をするため」でもなければ、「自分を大きく見せるため」でもない。
ただ「なんとなく」というしょうもない理由で嘘をつく。
「俺むかし足が速かったんだけどさ、部活でやってたテニスで腱切っちゃって、今じゃこんな感じ。」
下手に歩くフリをする。
「上野毛と言えばさ、友人でひとり住んでた奴がいたんだけど…」
後日その友人について聞けば「そんな友人なんていないよ」なんて笑顔で答える。
今まで会った中で一番適当な男だ。
知り合ったのは半年前、ツイッターがきっかけだった。
付き合い自体は古く、大学時代からのフォロー・フォロワー関係にあった。去年のある日、「転勤で東京を離れることになったから最後にオフしたい」と彼からDMで連絡をもらった。
その転勤というのも、オフしたその日のうちに嘘だということが判明する。
年はぼくより2~3コ下。パンサー向井似の好青年だ。
彼は自分を「公安調査庁の人間だ」と言った。
これは数少ない本当の話だとぼくは思っている。彼とは計4回は会っているが、職業のことについては一貫して「公安調査庁」だと言い続ける。
翌日にはついた嘘の内容も忘れてしまう彼のことを考えてると、確証はないけど職業のことについては嘘だとは思えなかった。
オウムや中核派、ロシア勢力について、彼はよく話してくれた。その中にはいくつかその場のノリだけで作られたような怪しい話もあったが、本当だと思われる話もあった。
なかでも、M資金と某組織暴力との話は渾身の出来だったと記憶している。たとえそれが嘘だったとしても、一から作ったとしたら彼は天才だ。
ぼくと彼は会えばキャバクラに行った。そこはお調子者の独壇場で、行きずりの夜の蝶相手に彼は上機嫌でいろんな嘘をつき、彼はいろんな人生を演じた。
ある夜、彼から「結婚指輪を貸してほしい」と頼まれたことがあった。
「これから会う人の前で既婚者アピールをしなければならない」と彼は言い、聞いてもないのにその人と彼との関係を語り始めた。
そう言う彼、しなのさん自身は既婚者だ。2年前、24,5歳の若さで高校卒業したての18歳と結婚している。子供はまだない。らしい。
「指輪くらい自分のを付けて行けよ」と言ったが、「仕事柄指輪は買ってないんだ」と返された。職業柄そんなものかと思い、ぼくはしぶしぶ指輪を渡した。
これから関係を終わらせに行く相手である女性とは、出会い系アプリのTinderがきっかけで出会い肉体関係を持ったらしい。
向こうの年齢は38歳。バツイチで20歳の子供がいる。
「とても体の相性がよかった」と彼は照れたような笑顔で語った。
「38のババアが年下と遊びたくてアプリをやっているわけ。若いツバメを囲いたいってやつ?俺自身相手を本気で好きになると怖いから不倫とかできないタイプだけど、こういうババア相手には気軽にできるんだ。」
思い当たるフシがある。ぼくは黙って何度も頷いた。
しかし、フェイドアウトするなら態々既婚者だとバラす必要はないのではないか?相手から余計な恨みを買いトラブルになる可能性もあるのではないか?
ぼくの疑問に彼は笑って答えた。
「男女の痴話喧嘩の1つや2つ抜けれないようではこの仕事続けられない。相手には当初から俺の本当の身分明かしてない。どんなに憎まれても、相手には俺に復讐する手立てなんてない。」
敢えてトラブルの火種をバラまくことを、この男は楽しんでる。
身震いがした。よくよく考えてみれば、その相手の女性同様、ぼくも彼のことをよく知らない。
この際、彼が本当に公安調査庁に所属しているのかも怪しくなってきた。
やっぱり心配だから返して、と言って彼から指輪を奪い返した。
「そうだよな」と言って彼は笑って、それから何事もなかったように3件目のお店へぼくを誘った。
3件目はチェーンの餃子屋で、ハイボールを飲みながら政治家のゴシップをあれやこれやと話し合った。
女性と会う予定はどうなったのだろう、と気にもなったが、聞くことはしなかった。
彼とはその後も2回ほど会っている。