帰省2021

年末年始は実家に帰った。

上司の上司や総理大臣から「帰るな」と言われ、悩んだ末の決断だった。

この機会に帰らなければ、初孫を見せる機会がさらに遅くなってしまう。

 

この決断に両親は特に何も言わなかった。彼らにとっても帰って来て欲しかったんだろう。

以前から妻に親しく接していたぼくの両親が、さらに親しく、実の娘のように接するような感じになっていた。

 

「嫁は子供を生んで初めて家族の一員になれるんだな」

と妻。

 

それでも、実家が終わってる妻からしたらぼくの実家はとても理想的に映るらしく、そこの一員になれて終始上機嫌だった。

 

「私の実家が終わってる分、こういうところでプラマイ上手く調整されているんだな」

とも妻。

 

沖縄にいる間は、ずっと父と母がドライバーとして県内の観光地を案内してくれた。

 

4泊5日の帰省のうち、ぼくはお腹が痛くなったり鬱病の友人を見舞ったりと、2日ほど行動を別にしたけど、その間も妻は「せっかくの沖縄なのにもったいない」とぼくの両親と行動をともにし県内を回った。

 

 

父の観光地案内はイヤラシくて、岬だったり史跡だったりの目的地よりも、その道中にある自己物件を妻に見せるのが主のようであった。


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米軍基地の話やグランピング場経営の話など景気のいい話が続く。前回の両家顔合わせで味わった妻の父への劣等感を払拭するためだろうか。オスみたいな資産のイキリが続く。

 

 

ぼくんちは自営業で長らく貧しい生活が続いた。ぼくが15になるまで、家族6人で1LDKのアパート暮らし。自分の部屋はもちろん本やおもちゃ等の私物もなく、持てる服は一人箪笥一段分と決まっていた。

貧しい。

 

医学部を目指した兄は浪人・私立進学が許されず、結局現役で滑り止めの後期試験で受かった首都大学東京に進学した。

 

ぼくがちょうど高校3年生くらいのころから仕事が上向いてきて、結果、ぼくが2浪しても私立文系に進ませて貰えるくらいの余裕ができた。

 

あれから10年。

「あと60浪くらいはさせて貰えたんじゃないか?」

というくらいには父は稼いだらしい。

ただその資産も、未だ実家に引きこもるニートの弟に相続され消える予定。

 

貧しさを理由に自立を促された兄とは対照的に、弟は「まぁ介護してくれるならいいんじゃない?」という親の態度のせいでスネ囓りばかり上手くなり飼い殺し状態だ。

 

 

実家に帰ると、優しい両親だったり暖かい気候だったりにほぐされて「いいなー沖縄」という気にもなるが、「もし帰れなくなったら、ここに閉じ込められたらどうしよう」という閉塞感も同時に覚える。先の見えない2年の宅浪の後遺症だろうか。

 

 

鬱病の友人を見舞った夜は大晦日だった。

「暗いところにいると死にたくなる」

と彼に言われるがままに、那覇新都心のメイド居酒屋で彼と会った。彼はそこの常連らしかった。

 

「アル中の母親が原因で崩壊している実家を建て直すために夏休みを利用して沖縄帰ってきたのにさ、気づけば鬱病が再発して博士課程休学。筑波を空けて4ヶ月まだ沖縄を出れずにいるんだぜ」

 

と泣きながら窮状を訴えかけてきた。

 

魔の山みたいだね」

 

と返す。

 

「貧乏人が学問なんかに色気見せるんじゃなかったよ」

 

彼とぼくのテーブルを彩る豪華なフルーツの盛り合わせを挟んでのこの会話。貧乏人がどうしてこんな店で常連できるの、とも思ったが、それを可能にさせるのが本当の貧困という思考らしい。

 

たかだか地方都市のメイド居酒屋、とナメてかかっていたが、その店のキャストはみな洗練された顔つきで、南国特有の濃い、目鼻立ちが大雑把な人は見当たらなかった。言葉遣いにも余り訛りを感じない。

 

「お兄さんたちはどこから来たんですか?」

 

と聞いてくるメイトさんたちに、ふたりして「東京!」と答える。羽田空港を使っていたら東京なのだ。

 

「東京かぁ~いいなー」

 

と羨望の目で彼女がこちらを見る。東京の話になる。

 

「東京の利点と言えばオフ会のしやすいとかあるよね。俺この前Vtuberの『今酒ハクノ』さんとのオフ会でさ…」

 

「今酒ハクノさん!?!知ってます!私の大ファンです!」

 

鬱病が饒舌に今酒ハクノとどれだけ自分が近いか、の話をする。

 

0時、クラッカーが鳴りハッピーニューイヤー。

4人目に付いたキャストが中国からの出稼ぎだ、という話になる。沖縄には原宿も渋谷もカラ鉄もない。思っていた日本の生活とは少し違うようだ。

 

客のオタクにとってもそうであるが、キャストにとっても、この店は沖縄からの避難所であることに気づく。お酒のメニューにテキーラはあれど泡盛はない。

 

 トーマス・マンの『トニオクレーゲル』にもあるとおり、地元はダンスや乗馬に興じた人たちのものであり、騎士道物語に熱中し詩を詠んだ人たちには生きづらいものだ。

 

「ここは沖縄で生きざるを得なかったオタクたちの『避暑地』だ」と鬱病に話した。

 

封建制の昔じゃないんだ。向こうにも仕事はある。家なんか、こんなとこなんか捨てて帰ってこい」と続けた。

 

ぼくは熱く演説するも、彼はニューイヤーライブが行われているステージを見てばかりで聞く耳を持たない。彼が沖縄を出れない理由に経済的事情があることは百も承知だ。でも、だからこそ、基本的人権の根幹をなす移動の自由がそんなものに劣後してはいけないはずだ、とそのときぼくはムキになっていた。

 

午前2時。

1月1日だというのに外の空気は生ぬるかった。お金もないので鬱病とふたり、彼の泣き言を聞きながら歩いて帰った。