沖縄の苗字

喜友名 諒選手が空手男子形で金メダルを獲得した。

沖縄出身者がオリンピックで金メダルを取るのは初の快挙らしい。とてもめでたい。

 

喜友名と書いて「きゆな」と読む。

本土(沖縄県から見た沖縄県以外の都道府県のこと)ではあまり見ない系統の苗字なので、沖縄出身のぼくは一目でウチナーンチュ(沖縄人)だとわかった。

喜納(きな)に喜屋武(きゃん)に喜舎場(きしゃば)にと、沖縄県には「喜」を含む(本土からすると)変わった音の苗字が多い。

 

「喜」を除いても沖縄は独自性のある苗字の宝庫だ。

県内の苗字ランキングトップ20は以下のような感じ。

順位 名前 人数 順位 名前 人数
1 比嘉 6,408 2 金城 6,388
3 大城 6,003 4 宮城 4,688
5 新垣 3,790 6 玉城 3,663
7 上原 3,494 8 島袋 3,089
9 平良 2,793 10 山城 2,382
11 知念 2,149 12 宮里 1,940
13 下地 1,782 14 仲宗根 1,765
15 照屋 1,750 16 砂川 1,734
17 城間 1,531 18 仲村 1,521
19 新里 1,345 20 新城 1,282

 

ご覧の通りここには「田中」だの「鈴木」だのと言った本土でよく見る苗字はない。

 

ぼくが過ごした公立中高において、こうした大和人(ヤマトンチュ)の苗字の同級生はぼくを含めて学年に2人くらしかおらず悪目立ちしていた。沖縄生まれにも関わらず苗字のせいで「ヤー(お前)排ガス(本土≒都会だから?)カジャー(の臭い)する喋るな」と虐められたものだった。

 

20にして東京の大学進学のため上京した際は、ゼミや語学でのクラスメイトが「田中」だの「鈴木」だのばかりで、彼らの名前を呼ぶのですら「コントの世界」みたいで気恥ずかしかった。

テレビに影響を受けた寸劇をやるときか、背伸びした都市小説を書くときぐらいでしか、沖縄県民のぼくは「田中」だの「鈴木」だのと言った大和人の苗字に触れることはなかった。

 

転勤族の受け入れをしている私立の学校であれば、もう少し大和人の苗字の比率は高かったのかもしれない。しかしぼくが通っていたのは公立で、転勤族(上流県民)でそうしたところに子弟を入れる人は皆無だった。いや、一人いた。

ぼくはその人のことを「先輩」としか呼んでなかったため、苗字のことをあまり意識したことがなかった。

 

「苗字を見たとき仲間だって思ったんだけどさぁ、キミも沖縄生まれかぁ」

 

と先輩は残念そうに言った。

 

歩いては立ち止まり、歩いてはまた、立ち止まる。背中を丸め老人のように歩いたかと思うと、若い男のように尖ってあるく。それから探偵になり、どこまでも立ち並ぶ墓標を一つ一つ、何かを探しているかのように彼女はのぞき歩いた。そのすぐ後ろを、ぼくらは歩調を合わせついていく。

 

ぼくの高校では、夏にこれと言って大きな大会が控えているわけでもない文化系の部活生が強制的に徴発され、沖縄県営平和祈念公園の平和の礎周辺を清掃するという地獄のようなイベントがあった。

8月の沖縄の日差しは強くうだるように暑い。

戦争末期であっても丙種不合格になりそうなモヤシたちが、平和の尊さを実感するため炎天下の中バターン死の行進がごとき強行軍で現地へと赴き、草むしりをしたり海岸部のゴミ拾いをしたりするのだ。

 学校指定のジャージ姿ではあるけれど、薄化粧をした白い顔に、エロゲの立ち絵でしか見たことのないような麦わら帽子に、日傘に長い黒髪に。「テレビで観る本土の人」のような洗練された出で立ちだった。

 

木々が影を曳いたあたりからカラスが舞い上がると、先輩はとたんに哲学者に変身している。話すのはいつも先輩ばかりで、ぼくがたまに口を開いても「うん」とか「えぇ」とか、いい加減にしか彼女は応えてくれなかった。何しろ周りでは死者たちが風のそよぎにまぎれ囁いているから、とでも先輩は言うのだろう。

形は少し変わっていたが、先輩はこのイベントを、そして沖縄を満喫しているようだった。

 

先輩は「田中」だの「鈴木」だの、そういった感じの典型的な本土の苗字の人で、高校から沖縄に引っ越してきた転勤族、シングルファザーの一人娘だった。

大学受験を控えた3年生はそのイベントへの参加を免除されており、また2年生のほとんどは何かしら理由をつけてそのイベントへの参加をサボっていたので、引率の教員を除けば先輩が最年長だ。

 

日陰に入れば風は涼しいけれども、汗が頬を滴り落ちるほどに気温は高い。空には雲ひとつなく、見事に沖縄的な一日だったのをよく覚えている。

 

高校一年の春に早速テニス部を退部したぼくは、所属を求めて図書館にある文芸部に落ち着いていた。彼女はそこに所属していた唯一の2年生で、まともに話したのはその日が初めてだった。

 

沖縄で過ごした20年間のうち、ぼくが接した大和人は先輩くらいであり、大和人と言えば先輩であった。

 

先輩は現役で早稲田大学に受かり、ぼくは二年浪人する。

 

先輩と再会したのは八王子の中央大学に通うために上京した20の夏、東京の学校に進学した同級生の集まりである「沖縄県人会」に出席したときだった。

先輩自身は東京都の出身だったので、沖縄には腰掛程度しかいなかったが、あの島が好きで県人会にもよく顔を出しているということだった。

高校ではそこそこ勉強ができたぼく。2浪してダメになった姿で県人会に参加するのすら後ろめたかったのに、予想外の先輩との再会に死んでしまいたいくらい惨めな思いをした。

 

場所は恵比寿。

集まったメンツはぼくの同級生、つまりストレートに進んだ人たちは大学3年生の代が中心となっていたため、みんな「東京慣れ」したような洗練された格好をしており、恵比寿という街のチョイスもそれを表していた。

一方ぼくは沖縄を出たばかりの八王子在住20歳童貞。

みんなの就活の話や「誰と誰が付き合ってる」と言った話を聞いて、「うん」とか「へぇー」とかしか言えなかった。中でも先輩は代も違うのに水を得た魚のように活き活きしていた。

「高校2年間いっしょにいたあの期間は何だったんだろう」

と思うくらい、これまで見たことのないような大人の顔で微笑み、細い細いタバコを吸うのだった。先輩の代名詞だった天然な振る舞いは鳴りを潜め、ふつうの大人の女性になっていた。

 

時は2011年。

3.11のショックにより就活市場は冷え込んでおり、みんなの就活は大変だと聞いた。

「ヤー(お前)は二浪だからもっと大変さぁね」

と外資内定者の同期にさんざん言われ先輩風を吹かされた。

(こいつと席次100番くらい違ったよなぁ……)

と思いながらも「そうだなぁ…」と弱く返事。

 

 大学4年生の先輩は就職せずに大学院に進学すると言った。

「出版社に就職できなかったし、私高等遊民にでもなるよ」

という先輩の自嘲に「早稲田でも就職が大変なのか」とますます自分の将来のことを思い気分が重くなる。実際は、その後のアベノミクスの成功による空前の売り手市場のおかげでぼくの就活は楽勝だった。人間万事塞翁が馬。何があるかわからないものだ。

 

その沖縄県人会の三次会のキャバクラで、ぼくは参加者全員分のお金を出し「以後関わらないでくれ」と土下座し彼らとの関係を断った。それ以来連絡が来ることはなかったが、彼らの中の一人に同じ中央大学生がおり、キャンパスで彼に会うたびにみんなの近況を聞かされていた。

 

「〇〇さん結婚したって聞いた?相手は15も上の助教授だって」

 

先輩の結婚を聞いたのも彼からだった。綺麗な人だったし意外でも何でもない。しかし、話を聞けばあの県人会の夜時点ですでに婚約まで済ましていたという。つまり、就職ではなく大学院進学に舵を切れたのも、夫という兵站を確保してたからだ。せっかく同情してたのに少し腹が立った。

 

最後に先輩に会ったのが大学二年生の秋。中央大学の文化祭でのことだった。

上記の彼はダンスサークルに所属しており、三年生としてラストイヤーの舞台に立つ彼を観に、先輩はわざわざ八王子まで来てくれたのだ。

ぼくが所属していた雑誌部のブースにも先輩は寄ってくれた。宅間守とアメリカンニューシネマについて書いたぼくの評論にざらっと目を通し、「そういえば私結婚したんだ」と話し始めた。「そうなんですか」とぼくは初耳のようなリアクションを取った。

 

「旦那がね、映画がとっても好きで、この間いっしょに未来世紀ブラジルを観たの。ずっと前に図書館でブレードランナーの鑑賞会をしたことあったよね。だからきっと趣味が合うと思うの。」

 

とても映画好きな文化人らしい。大学の助教授になるくらいのインテリなんだから、きっとぼくのこの評論が遠く及ばないくらいの、すごくすごい文章を書くんだろう。

「今度みんなで一緒に食事しよう」と誘われたがぼくはそれを断った。ぼくは彼女からそれとなく旦那が大学の助教授であることと、その名前を聞き出し、彼女と別れた後にその名前を調べた。

 

専攻は政治経済関係でサブカル方面ではないにも関わらず、彼の私設ブログでは様々な映画や小説の評論がなされていた。やはりぼくの文章なんて足元にも及ばないくらいのすごくすごい考察だ。映画方面の知識でもきっと彼には敵わないんだろう。食事は断って正解だと思った。

 

でも、だ。ぼくは繰り返し映画を観た。何かしなきゃという焦燥感を埋めるため、毎日のようにゲオや図書館でDVDを借りて観続けた。何回も観た映画の俳優の名前やセリフすら覚えられない質だから、繰り返し観た『真夜中のカーボーイ』の良さについて語れと言われても「よかった」以外の感想が出ない。それでも惨めな状況で観た惨めな映画たちのことを、誰よりも愛している自信があった。

 

とまあそんな方面で勝手に競っても仕方がないのだが、ぼくの中で彼は「映画を論評の道具として扱うエセ映画好き」として処理された。ツマラナイ俗物の烙印を彼に押したのだ。そんな男に惚れるような彼女もまた同様にツマラナイ人。

先輩は高校の文芸部時代、三人称の小説をよく書いていたのだが、人生観が未熟な高校生が書く三人称の文体は鼻についたのを思い出した。

彼女が実名でやっていたツイッターでファンだと公言していた地下落語家、どんな野郎かと思ってライブを観に行ったら、三島由紀夫にオウムにとキワドイ言葉を多用した単なる顔の良い色物でその趣味に幻滅したのを思い出した。

 

 

喜友名 諒選手の金メダル獲得がきっかけで、久しぶりに彼女のことを思い出した。「今何をしているのだろう」と、彼女の名前を検索しても以前はヒットしたFacebookやツイッターのアカウントが出てこない。結婚して姓が変わったからだと気づき、旦那の姓を思い出そうとしたが思い出せない。

たしか「田中」だの「鈴木」だのと言ったありふれた姓だった気がする。

それが思い出せない。