「堕落論」ー坂口安吾

大韓民国において、キノコ雲を伴うあの原爆の写真は、日本の帝国主義の敗北と民族の復活を祝う『光復節』を象徴するものとして、一部界隈で愛されているらしい。

 

非戦闘員を無差別大量虐殺したあの兵器を好意的に評価するなんて言語道断だ。

 

しかし、事実として、当時の日本本土で暮らす在日朝鮮人や日本占領下の朝鮮半島で暮らす朝鮮人は、破壊の象徴であるはずのあの光に希望を見た。

 

彼らの立場に立ってみると、理解出来るとは言えないまでも、その感情はわかる気がする。

 

同じ日本人のなかにもあの原爆を評価する人たちがいる。

政治的な理由からではない。日常をぶっ壊す災禍を人工的に作り出した、という点において、彼らは原爆を評価する。

 

坂口安吾や内田百閒の戦中エッセイを読んでいると、「空から降り注ぐ焼夷弾と焼け堕ちるご近所の美しさに惚れ惚れした。」等の記述があったり、帝大卒や皇族も出兵し貧富の差なく平等に降り注ぐ戦禍にご満悦な共産党崩れのエピソードがあったりと、対岸の火事ではなく自身もその渦中にいながらもどこか他人事のように災禍を楽しんでいる人たちが出てくる。

 

「交通事故とかリストラとか、対象が狭い悲劇には辛いところしかないが、集団として味わうそれはプラスマイナスでお釣りが来ることさえある。」みたいなことを著者は言う。

 

 

ツイッターの誰かが「オタクはコロナ禍でむしろ輝いてる。それはオタクが新しい生活様式に適正があるから、ではなくオタクは日常に適正がないため相対的に辛くなさそうに見えるからなのだ」と書いた。

 

そのとおりだと思う。平時において虐げられている人々は、日常を破壊する大災害の中に希望の光を見る。