”私”の系譜

 文壇の潮流において、夏目漱石が最も憂慮したのが「私小説」の隆盛だった。明治期に雪崩のように入って来た「私」という自我の概念を持てあました作家たちは、こぞって私小説を書いた。

とりわけ、一時代を築いたのが田山花袋の『布団』である。最も安直な自我の確立手段として、「私は…である」と原稿用紙に書き記せば、そこに「私」が立ち現れる気がした。少なくとも書いてる間はそう思えた。 

 漱石はなにも「私の確立」という意識が薄かったわけではない。いや、むしろ人一倍、病的と言ったまでにその意識に囚われた一人の作家であった。英国留学における彼の精神衰弱の原因に、その狂気が見て取れる。 

 しかし漱石は気付いていた。「私」とはそんな安直なものではない。「私」なるものが想像し創造される概念だとしても、「私は…である」と書けば私が見える、なんて無茶な話があるわけがない。小説内の神である著者の、その透き通った理知を持ってしても、「私」は「私」を安易に語りえないのだと。それらは、未だ自然主義を謳うただの露悪趣味に過ぎないのだと。だからこそ漱石は、のちに彼の代表作となる作品の冒頭に嗜虐心を込めてこう書いた。 

「吾輩は…猫である」 

 漱石の弟子、芥川龍之介もその私小説の隆盛と戦った一人の文学者であった。そのため、その信念のもと書き上げた彼の文壇デビュー作『羅生門』や続く『芋粥』などは漱石の激励と世間の厳しい批評を受け、やがて文壇の台風の目となっていく。

しかし、そんな彼も、晩年は『或阿呆の一生』や『大道寺信輔の半生』などを書き、次第に陰鬱さ漂う私小説に傾いていく。そして…… 

 その芥川の影響を最も受けたのが、失格人間、もとい華の道化こと太宰治であった。このように、夏目漱石の意志は、芥川を経て私小説の大成、「私」の敗北へと繋がるのである。 


 という概要のぼくの卒論『“私”の系譜』は、2万字を境にいっこうに進まぬまま、結局未提出で卒業を決めてしまった。(法学部なので卒論は必須でないため) 
この卒論を境に私小説とは縁を切ろう、と思っていたのだが、書けなかったんだからしょうがない。あと数年は、これら「青春の麻疹」と付き合い、これからも細々と思い出を切り売りしていこうと思ってます。 


 そういうわけで、ぼく、もとい“私”は来月から新社会人となりますが、ブログはこれまでどおり続けるつもりです。頻度は下がると思いますが、これからもどうぞご贔屓に_(._.)_ (卒論はいつの日か必ず書き上げます)