前の職場、役所での話。
2020年、役所に就職して6年目の春。
初めてぼくの下に後輩が付いた。新卒の女の子だ。
新卒はまず配属されないような電算部署-当時のぼくは「表に出せない人材の座敷牢部署」と呼んでいたーだけあって、新卒が配属されることは稀だった。
彼女もぼくと同じく少し変わった人材で、人間性に難があった。親しくもない人に対して、年上年下関係なく皮肉や嫌味をズバズバ言う。その年齢と性別だからギリ許されているだけの、有望な高度パワハラ人材だ。
その部署の朝は遅く、夜はもっと遅い。
22歳の女性である彼女もその例外ではなく、一緒の終電で帰ることが多かった。
ぼくは彼女と最寄り駅が同じで、担当業務も同じことから、退勤後も同じ動線になることが多かった。
彼女と、というよりは、若い女性と一緒にいることに気まずさを感じるぼくは、意図的に退勤時間をずらしたり、駅で見かけると一つ車両を変えたりもしたが、ばったり出くわしてしまうと、会釈して別れる方がむしろ不自然で、彼女に自分の劣等感を晒しているような気もするので、無理して最寄り駅までテキトウな会話をして間を持たせた。
彼女の出身大学はぼくと同じ八王子だったので、キャンパス周辺のローカルトークをよくした。
ある日の21時ごろ、その日も夜ご飯も食べずに残業し、カロリーメイトを歩きながら食べ駅に向かって歩いていたところ、彼女と鉢合わせた。
避けるのもヘンなので軽く会釈をして、ふたり駅まであるいた。
その場所のすぐ近くでは、女性の路上ミュージシャンがギター片手に大森靖子の歌を歌っており、数人のサラリーマンが立ってそれを眺めていた。
それを横目に彼女が言った。
「先輩、あの男性たちは彼女のファンだと思いますか?」
「どう見ても仕事帰りっぽいし、通りすがりだと思う」
「では、向こうで歌う男性ミュージシャンと違って、なんで女性ミュージシャンのところには通りすがりでも人が集まると思いますか?」
「……え、それはあれでしょ、えっと」
「視線の治外法権だからですよ。咎められるのが怖くって、女性には視線を向けることすら許されない。そういう規則を内面化させた臆病な雄たちの、唯一の治外法権が女性路上ミュージシャンだからです。」
ぼくにそう言うと彼女は、「私はこれからデートなので」と言って、ぼくとは別の改札に入っていった。「お前も女性路上ミュージシャンに群がる男性と同じだぞ」、と言われたような気がしたし、彼女のことだからそれを意図したに違いない。
彼女にはサントリー勤務の超スマートな彼氏がいる、という話を、職場の飲み会で聞いたことがあった。
その日以来、ぼくはますます彼女のことが苦手、というか畏れを抱くようになり、退勤の際は必ず彼女より後に職場を出るようになった。そうしているうちに月日は流れ、彼女が異動となり、ぼくは転職し現在に至る。
先日、そんな彼女からLINEがあった。連絡先を交代した覚えはなく、おそらく当時作成した職場のグループ経由の連絡だった。
「私も転職したいので相談に乗ってほしい」
とかそんな内容で、彼女と言えども女の子にそう言われると悪い気はしなかった、というかむしろ「これは……アリか?!」と当時の畏れなんて忘れて、すぐに彼女との食事会をセッティングした。
彼女と一対一で食事するのは初めてのことだったが、これまでのことやぼくの転職のこと、彼女の転職志望の理由、など話していたらあっという間に時間が過ぎた。
終わり際、転職に関する話は少ししかできず、アドバイスは全くできなかったので、次回の開催の約束をする。
「いやでも奥さんと娘さんもいますよね。こんなに頻繁に若い子と飲んでもいいんですか?」
とへべれけ顔で言う彼女に対し、
「むしろ妻子があるからこうできるの。どれだけ遊んでも帰る家があるわけだし。むしろ〇〇さんに悪い気がするよ。独身の大切な時間をこういうのに浪費させてしまって。」
とぼくが答えたところで、彼女の表所が急に険しくなる。
「結婚して子どももいるから、私より上だって思ってませんか?独身の私が惨めだとでも?私に対して憐憫の情を持っていますよね?」
「傷ついてしまったなら申し訳ない」
彼女の言っていることを否定はしなかった。
ホテルまであと数センチの距離だったところからの大喧嘩。テーブル会計を済ませた後にも関わらずそこから20分ほど席で、ぼくは経歴とか叩かれ続けた。
帰り道、お酒を飲んでいたため気分はよい。転職もしたし、もう会うこともない相手。最後の最後でとても嫌われたのだから、もうどう思われようがいいや。
「俺はね、今でも植木等になりたいんだよ。些細なストレスで不眠症になるくらいのメンタルの弱さだけど、"まーた〇〇がテキトウなこと言ってるよ"って、周囲のみんなに馬鹿にされながらもなんだか憎めない、そんな男に。だから、不快にさせてしまったことは申し訳なく思っている。」
「私引っ越したので、この路線です。失礼します。」
異性と久しぶりに、異性と本当に久しぶりに腹を割って喋れた気がした夜だった。