我が名は青春エッセイドラゴン

 10年前、当時は若く、性欲に溢れており、ズリネタが枯渇していた。


 どれぐらい枯渇していたかというと、朝刊の折り込みチラシに刷られたヴィクトリア・ベッカムの写真で抜いていたくらいだ。
2LDKのマンションに家族6人暮らし。もちろん自分の部屋なんてなくて、ネタを隠す場所もなく、見つかれば逃げ場もない。
躊躇なくさささっと処分できるTBCのチラシ広告くらいが、当時のぼくにはちょうどよかった。


 性欲が枯渇し、今やセックスレスに悩んでいる10年後のぼくを見て、当時のぼくは何を思うだろうか。きっと大した感想なんて抱かないに違いない。ぼくは常に近視眼的で、関心は常に今の自分自身にあった。

 

「ほんとうにこのままでいいのだろうか」

という焦燥感と、

「どうなってしまうんだろう」

という不安と、

並々ならぬ性欲。

 

 疾風怒濤と言われる思春期のころ、感性が変に敏感で、傷つくことが多く、恥ずかしい思い出の数々。残業中の職場で、今でも不意に当時のことを思い出して、「わー!」とひとり奇声を上げてしまうことがある。

 

 

 

 自分の部屋もなく、パソコンもなく、テレビは居間に一台という環境下、今ではワンクリックで安易に手に入る刺激的(ノーモザイク)なシロモノなんて当時は手の届かない存在だった。


高校1年生、15歳、月々のお小遣い3000円という制約。どうにかしてその月のネタを集めること、帰宅部だったぼくは、そうしたことに青春のエネルギーの大半を注いだ。

 

 よくテレビや知人の話で聞く「エロ本が捨てられている河川敷」を探しに、自転車でとなりのとなり町まで遠征したこともあった。結局見つかりはしなかったものの、道中、昔のエロ本・エロ雑誌・写真集を安く売っている古本屋をたくさん見つけた。
以来、これら店舗は浪人期間まで合わせると計5年間の長い付き合いとなる。

 

 

 いろいろと試行錯誤している中で見つけた趣味もある。映画だ。本ばかりではなく、できれば映像でエロいものを摂取したい。「映像でエロいものが見たいのなら、AVを見ればいいじゃない」というのは貴族の発想で、ネットもなくあの暖簾をくぐることもできない15歳にとっては、そうい行為は映画でしかお目にかかれない。

 

 しかし、007を筆頭にしたハリウッドで描かれるスマートなそれがいいのか、というとぼくの趣向とはちょっと違っていて、少ないお小遣いのなか、ハズレ作品にレンタル代金を消耗させるわけにもいかない。

悩んでいたなか出会ったのが、市立図書館に置いてあった宝島社系列の「カルト映画批評」というジャンルの本たちだった。

カリギュラ、バーバレラ、徳川女刑罰絵巻、アマゾネス……たくさんの変態映画たちをそこで学び、実際に借りて観た。今にして思えば多感な時期に観るべきではない作品の数々。ぼくの性的趣向に与えた悪影響は計り知れない。

 

 そんな感じだったので、もちろん高校時代は母親以外の女性と話すことなく終わった。

 

 映画本を読むのには思わぬ副作用もあった。本に載っている映画は何もエロ・グロ・カルト映画ばかりではなく、キューブリックだったり、コッポラだったりと、古典的な名作も載っていた。TSUTAYAさんでDVDを借りる際は、エッチなものばかりレジに持っていくのは恥ずかしいので、そうした古典の名作も「まぁ観てみるか」程度の気持ちで一緒に借りることにしていた。

 

 アメリカンニューシネマにATGに男はつらいよ、部活に入っていなかったし、彼女はおろか友達も少なかったんだから時間はたくさんあった。

 リビドー、つまり思春期の性衝動というのは恐ろしいもので、パブロフの犬というべきか、初めは性的コンテンツとして消費していたサブカルを、気づけば性的な側面以外でも進んで消費するようになっていた。

 

 

 家にパソコンがなく、インターネットも使えないなかで、本や漫画に映画にたくさん吸収した。今にして思えば、そのときに「哲学」だとか「世界文学」だとか「語学」だとかいうものに触れておけば、後々にも役立つであろう教養も身に着いたんだろうけど、「そういう土俵で戦ってもおれは勝てない」という強くて弱い信念があったぼくは、あえてニッチだと思われるバカバカしいコンテンツを進んで吸収した。

バカバカしければバカバカしいほどよかった。同じ陰キャな同世代がアニメやゲームに興じるなか、ぼくは性衝動から派生した沼みたいな腐ったジャンルを驀進していた。

 

 「美容院に置いてもらえる、エッチじゃないけどエッチな雑誌」をキャッチコピーとした『サイゾー』に出会ったのもちょうどその道中、高校2年生のときだったと思う。

 サイゾーには市立図書館で借りるどのサブカル本にもない、今を切り取る先進性があった。当時のネットの流行りや暴力団事情に懐かしのサブカル特集。表紙や、ぱっと見の紙面の構成は雑誌「音楽と人」と見まがうほど洗練されているのに、その内容はダークでそれでいてクドくない。そのセンスにぼくは惚れこんでしまった。

 

 当時は父の事業が軌道に回り、ぼくたちは4LDKの新築マンションに引っ越した。住環境はよくなった ものの、教育姿勢は依然と変わらずで、パソコンも買ってもらえなければ、テレビも居間に一台のみ。お小遣いも月3000円のままだった。月々のサイゾーに対する出費は決して安いものではなかった。

 

 今でもたまに本屋でサイゾーの表紙を見かける。グラビアアイドルがででんとその体を強調した、そのサラリーマン雑誌風な表紙を見るたびに「お前も変わってしまったな」と哀しい気持ちになる。

 

 

 筋肉少女帯を知ったのも、たしかサイゾーでの「再結成インタビュー」の特集記事でだったと思う。以前から「踊るダメ人間」という歌は知っていたが、そのバンドの存在を意識するようになったのは、その時が初めてだった。その数日後、TSUTAYAさんで見かけ試しに借りたベストアルバムにやられてしまった。

 

”主体的に生きることができず、君と別れる時もただ為すがままに恋の終わりを見送った男が「おれは高木ブーだ」と叫ぶ” 元祖高木ブー伝説

 

”空気女に小人、寺山修司の世界観をベースにドグラマグラ唯脳論を説く"  サンフランシスコ

 

"仮に世界に復讐できたって、一番ダメな自分は残るぜ、と世界系に対する痛烈なパンチラインを放つ" 踊るダメ人間

 

"サブカルクソ男の理想の男女関係を優しく歌う" 香菜、頭を良くしてあげよう

 

社会性のない男の悲哀をコミカルにオーケン(ボーカルの大槻ケンヂのことです)の姿が、道化に真実を語らせるシェイクスピア戯曲のようで心に刺さった。

 

「馬鹿馬鹿しい装いをしないと、真実なんて語れたものではない。ともすると彼は、世間からの嘲笑を引き受ける代わりにぼくたちを救ってくれるキリストなのでは……?!」

 

オーケンの歌はどれも優しく禍々しい、当時のぼくの心にすっと馴染んだ。それまではサザンオールスターズ宇多田ヒカルなど、普通の曲しか聴いてこなかったぼくには、とても新鮮だった。
「この人は嘘を歌ってない」そう思えた。

 

それからというもの、筋肉少女帯、とそのボーカル大槻ケンヂにハマり、曲という曲を聴いたし、彼が書いたエッセイというエッセイを読みふけった。

 「のほほんと生きよう」と主張する彼の思想の源流から内田百閒を知り、文体から中島らもを知った。自己嫌悪と焦燥感とちょっぴりの選民意識。この3人が書く文章にはその3つがちょうどいい塩梅でブレンドされていて、ごみ箱をひっくり返したような思春期のぼくにはそれが心地よかった。

 

 

 

 倦怠感を理由によく高校を休んだ。家でひとり、NHK教育の番組を流しながら本を読む。ズル休みした日に見るNHK教育の番組は、小学校時のノスタルジーを喚起させてくれる。それは、眠れない長夜に聞く雨音のようにリラックス効果がある。

 

2008年、リーマンショックの年。好調だった父の事業が傾き、看護師の資格を持っていた母が病棟の夜勤に出るようになる。兄が大学進学のために上京し、妹は中学に上がり強豪ハンドボール部に入り部活漬けの毎日。日中家にいるのはぼくだけになった。

高校3年生、学校をサボって勉強するでもなく本を読んだり自転車に乗って、となりのとな町の古本屋なんかに通ったりする毎日。当然学力は落ちるし、試験にも落ちる。ぼくは浪人した。

 

 その次の年、ぼくの浪人1年目の年に弟が不登校になって、ほどなくして高校を中退した。日中は弟と家にふたり、勉強するでもなくただ無為に時間を過ごした。居間で弟がプレイするスパロボなんかを観ていた。

このころになると、のんびり屋のぼくのなかでもムクムクと焦燥感が育っており、何をしてても「このままじゃイカン。このままじゃイカン。」という声が頭の中でこだまし、何にも集中できなくなっていた。昔のように自由に本も読めない。かといって、勉強するでもなかった。

 

 適当な理由をつけて、勉強以外のことをやった。浪人生は体が資本、だからヨガを始めたり、効率的な勉強のために速読を始めたり、国語の勉強と称し世界文学を読み始めたのも、確かこの辺りからだった。

ダイソーで買ったキャンドルを、暗い自室の四隅に置き火をつける。そこで1時間ほど座禅をして目を開ける。特に気持ちの変化は起こらない。

 

浪人も2年目となるとどこか吹っ切れたもので、「来年もこの生活が続くんだろうな」という変な安堵感すらあった。

 

 

 

 父の事務所のパソコンから落とした「大槻ケンヂオールナイトニッポン80時間分」をiPodで聞きながら自転車を漕ぎ、今頃大学生をやっている同級生たちと顔を合わすことがないように、目的もなくただ遠くの遠くの町まで向かう。

1週間もしないうちに80時間は聞き切り、リピートで繰り返し繰り返し再生して聞く。
「馬鹿だなーオーケンは」と独り言をいいハハハと笑う。

 

MDプレイヤーの持ち主だった兄は、それとともに家を出てしまった。そのため、ぼくはiPodを介してしか音楽にアクセスできなくなった。iPodの曲を更新するにはパソコンがいる。そしてパソコンは父の事務所にしかない。

曲が滅多に更新されないiPodで、ぼくは繰り返し繰り返し大槻ケンヂの歌を、ラジオを、聴いたのだった。

 

大槻ケンヂの曲の中でも、ただ唯一聞かない曲があった。孤島の鬼だ。

 

”僕はここで見ていよう 君が堕ちてゆくところを"

"遊ぶばかりで働かず 君もそのうち日が暮れる"

"その島は囲まれて 君はもう動けない"

 

これらの歌詞が、一生この部屋、沖縄県から出れない、暗いぼくの将来を暗示しているようでとても嫌だった。この曲のイントロに入るたびに自転車を止め、曲をスキップした。

 

 

 後日談になるが、そののち上京し、何人かの女性と付き合った。彼女らの多くは趣味が変わってて、そして趣味がよかった。付き合いもしばらくすると、ぼくは胸襟を開き、大槻ケンヂが好きなことを伝えた。誰もがみなわかってくれたが、わかってくれなかった。彼女らからは、岡村靖幸だとか、小沢健二を教えてもらった。

こんなモテる、かっこいいサブカルに青春を費やしたかった、とぼくは後悔した。そして大槻ケンヂ好きを恥じた。

今でもひとりでカラオケに行くときにしか、大槻ケンヂは歌わない。

 

 

 高校3年間と浪人の2年間、自転車で古本屋を巡り、コツコツとエロ本を集めた。
初めのころは、隠すスペースにも限りがあったので、買うたびに新旧交流戦を行い、敗れ去ったものたちを近所のコンビニのごみ箱へレイオフしたものだったが、広い家に引っ越し、そして兄が上京でいなくなるとスペースに余裕ができるようになった。気づけばタンスいっぱいのたくさんのエロ本を収集していた。

 

 浪人2年目、深夜に近所の公園のブランコを一人漕ぎながら人生について考えるのが日課になっていた。気分は黒澤明の名作「生きる」の志村喬だ。

中学、高校のときは夜の公園が怖かった。真っ暗なか、ポツンと光る公衆トイレが怖い。真っ白なワンピースを着た女性なんかが立ってたらどうしようか。大きな声で騒ぎ立てるヤンキーが怖い。彼らと遭遇してしまったらこのオタク顔、ぜったい絡まれるに決まってる。

でも、浪人2年目ともなると夜の公園は怖くなくなっていた。早く死にたかったし、日常がつらかった。非日常と触れ合えるなら、それが最悪な結果につながるとして、それはそれでよかった。ただ、同級生と会うのは嫌だった。

 

彼らも寝静まって、きっと怪異しか起きてないであろう深夜2時くらいの時間に、ぼくはよくブランコを漕ぎに夜の公園に向かった。自暴自棄を気取っていた。

 

 

 

 夜の公園にはよく行ったが、結局変わったことに遭遇することはなかった。出会うのはホームレスぐらい。結局そこでも日常から逃げることはできなかった。

「勉強しなきゃいけないのに…」

焦燥感に襲われながらもひとりブランコを漕ぐ。

 変な考えが浮かぶ。

深夜、たまたま公園でひとりブランコを漕ぐぼくを見た人は何を思うだろうか。どう見えるんだろうか。彼らにとっては、ぼくの存在が怪異として映らないだろうか。何にも残せないような人生なら、せめて他人の人生のちょっとしたスパイスになりたい、という考えが浮かぶ。


いま思えば、それは近年社会を騒がせている「最強の人」、持たざる者の社会への無差別的復讐。それに近い考えなのかもしれない。

 


 ある夜心に決めた。夜公園でブランコを漕ぐオタク顔、これだけでは怪異としてのパンチが弱かったので、毎週木曜日、在庫のエロ本を何冊かブランコの上に置く、という怪異になることにしたのだ。

思い立ったら吉日。その夜は家に戻り、ロリ系からマニアなスカトロ系まで、どぎついと思われるジャンルのものを選抜しバックに詰め、夜の公園にばら撒くためにまた戻った。

 

拾うのは中学生だろうか、はたまた子供と散歩中の母親だろうか。彼らの日常において、このエロ本が一点の黒い染みになってほしい。今考えれば梶井基次郎檸檬に近いところがある。そんな行為を何回か行った。

 

ある日、そのエロ本の第一発見者のリアクションが気になって、置いたあと張ってたことがある。その日は、公園内で見たことがある馴染みのホームレスが拾っていった。「つまんないの」と思いながら別の日、また張っていると、その日も同じホームレスが拾っていった。多分偶然ではない。ぼくは黄色い爆弾を仕掛けていたつもりが、単にホームレスに餌付けをしているだけだった。

 

 

のんびりしたり、安堵したり、急に深刻になったり。あのころは精神を病んでいた。

 

 

こういう、どうでもいい話こそ話したいし、聞いてほしい。

同調や賛同は求めない。ただ聞いていてほしいのだ。

「夫婦生活とは長い会話である」

というニーチェの言葉が真実だとすれば、結婚相手に求めるべき条件は、外見がいいとか、いい会社勤めだとか、内面が尊敬できるとか、そういうものではなく、ただ眠れない夜につまらない話をとうとうと話せ、うんうんと聞くことができる関係なのではないのか。

 

ぼくにはもったいないくらいの、綺麗で、聡明な女性と結婚して2年、強くそう思えてきた。

 

そういうわけで、上記の話にオチはない。