月と六ペンス サマセット・モーム

先日、公安調査庁に勤務するツイッターのオタクと食事をした。

会うなり早々に自分の所属を名乗っていたので、きっと仕事はあまりできない方なんだと思う。

 

「もともとは県庁が第一志望だったけど、落ちた。国家総合職の官庁訪問でも第一、第二志望に引っかからず、流れ着いたのがここだった。」

 

という話。けっこう特殊な職務内容だけに、志望度の薄かった彼が苦労しているかと思えばそうでもないらし。

 

「学生時代から左翼やカルト宗教団体はサブカルとして好きだったので、この仕事はすぐに馴染みました。ドストエフスキーの『悪霊』、あれが私のバイブルなんで」

 

『悪霊』はぼくも読んだことがあったので、それから終始ドストエフスキーの話をした。

 

ドストエフスキーは文体は錯乱しているのに、情景描写、特に室内の家具の描写が丁寧で「作者は本当に異常者なんじゃないか」という緊張感を読者に与える。

 

と彼に話したところ、「亀山先生の受け売りですね」と笑って返してくれた。

 

小手先の批評は通じないらしい。

 

新宿の餃子の満州でたくさん食べ飲んだ。20時以降はテキトウに歩き店を探し入って飲む。お酒はあまり強くないので22時にはもう吐いてた。

 

帰り際、「いつかは地元に帰ろうと思ってる」と彼は話してくれた。

仕事はまぁまぁ楽しいが、人生を賭する価値はない、との判断からなそうだ。

第一志望だった地元県庁に未練があるらしい。

彼が語ってくれた、 某宗教団体や某国家の諜報員との攻防戦。その仕事の話すら「つまらないもの」として切り捨てる彼が県庁の仕事なんかに満足する未来は見えない。

 

 

何のために生きているか、を考えさせる本にサマセット・モームの『月と六ペンス』がある。

 

執筆家の「私」が主人公な一人称小説(通称作家小説)なため、文体がやや卑怯に感じる小説だが、それがこの作品のミソだ。

天才の行動、いや、たとえ常人のそれですら、その動機や背景を正確に分析し描写することは不可能である、ということをこの作品は説いている。

 

人はただパンのみに生きるわけではない。

 

絵への情熱、といったら陳腐だろうか。

イギリス在住の裕福な証券マン、ストリックランド氏は突如妻子を捨て蒸発。

風邪の噂ではフランスで世捨て人のような生活をしているという。

誰もが「女ができたからだ」と噂した。

だって大の男が妻子を捨てて身を窶してまで異国で生活する理由なんてそれぐらいしか想像つかないから。

 

書くのも野暮なのであとは読んでほしい。

人生を語るのに語りすぎるのは嘘だとこの小説は教えてくれる。