シーサイド美術館

その曲は気だるいピアノの演奏から始まる。

筋肉少女帯を脱退して迷走に迷走を重ねていた大槻ケンヂが、特撮というバンドで発表した迷アルバム『夏盤』。その最後を飾る曲、それがシーサイド美術館。

 

誰も来ない、というかそもそも人すら住んでいない地方の寂れた美術館が舞台。何のためにいるのかもわからないガードマンや、全く光を取り込まない薄汚れたガラス窓のエントランス。それら寂しい風景に自己投影し、現実逃避をする。そういう曲だ。

 

これから将来のことを考えるとお先真っ暗で、過ぎ去りし過去のことを思い出すと今は亡きキラキラとした情景に目を刺される。

自室に一人でいても、何も手に付かなかった。宅浪中、ぼくらただ焦燥感に駆られるままに自転車に乗った。

 

家を出る際は決まってこの曲を聴き、そうした風景を探しに寂れた方へ、より寂れた方へとペダルを漕いだ。実家は沖縄県と言っても都市部の方であり、1時間、いや2時間ほど自転車を漕がなければそうした寂しい風景にはお目にかかれない。

浪人期間は勉強している時間よりも自転車に乗っている時間の方が長かったんだと思う。

 

大学進学のため上京してからも、相変わらず将来は暗いし、過去は明るいままだった。だからその習慣は変わらず。自転車はなくなったが、代わりに電車に乗ってどこへでも行けるようになった。

 

一緒に寂れた風景を見て回る友達もできた。名前は米山くん。1年生の春、考古学研究会の新歓サークルでぼくらは出会った。歴代総理大臣の声帯模写が得意で、特に鈴木善幸がソックリだった。レトロな芸能界事情に詳しく、80年から90年の間に限定すれば、オリコンの月間ランキングを完璧に暗記していた。

 

狭くて深すぎる彼のその教養は、間口の広そうな文化系サークルである考古学研究会の人たちにすら刺さらなかった。が、ぼくにはドストライクだった。

結局、ぼくも彼も考古学研究会には馴染めずにすぐ辞めることになるが、その会に残った誰よりも、一番の掘り出し物を見つけたのはぼくだという自負がある。

 

 

米山君は変人だったので、寂れた風景を求めて遠くに行くというぼくの趣味に付き合ってくれた。講義が午前中だけで終わる水曜日や、バイトがない金曜日に、ぼくらはよく電車に乗って埼玉県の蕨とか千葉県の佐倉に向かった。

 

本州には地元沖縄以上に寂しい風景がごまんとあることを知った。米山くんの出身は青森だったので「俺の地元の方がもっと寂れている」と言って探索先の街と張り合っていた。

 

 

米山君は武蔵小山の祖父母の家に下宿していた。一度、彼の下宿先を訪れたことがある。同じ都内と言えども、ぼくの住んでいた高幡不動とはえらい違いの華やかな街で、駅から10分も歩かないところにその家はあった。

 

「祖父は東大卒の弁護士だ」とは聞いていた。1950年代の東大を卒業し旧司法試験を突破して弁護士になった本物のエリート。武蔵小山の駅近に大きな敷地を有しているところを見ると、どうやら嘘ではないらしい。

しかし、戦前の灯火管制を思わせるほど窓という窓を暗いカーテンで閉め切ったその家の印象は、あまり良いものではなかった。

 

米山君の祖父には二人の息子がいた。一人は脳筋ではなっからの勉強嫌い。スポーツ推薦で専修大学に進んだ。もう一人は東大卒弁護士の父の期待を一身に受け勉学の道に進むも、早々にストレスで潰れてしまい高校卒業後は社会にも出ずに、武蔵小山の実家で引きこもりのような生活を送っている。前者が米山君の父で、後者が米山君の叔父になる。

 

「引きこもりの叔父のせいであの家は暗いのか」とぼくは思った。そういう事情があるせいか、米山君がぼくを下宿先の家に上げてくれたことは一度もなかった。

 

米山君の父は専修大学を卒業後、太陽信用保証株式会社(現太陽生命)に就職する。そこで持ち前の馬力を活かし営業に精を出し、出世の階段を登って行ったという。3年に1度のペースで転勤をしていく中で生まれたのが米山君。父の転勤に伴い、米山君も長野、千葉、大阪、宇都宮、青森と転校を余儀なくされた。あまり社交的なタイプではなかったので、友達はできない。そうした中で、出会ったのが深夜ラジオだったという。

 

「そんだけ仕事頑張っても最終的には青森に飛ばされて終わるのか・・・専修大卒ってつらいね」

 

とぼくが冗談で言ったことがあった。米山君は笑いながら、

 

「違う違う、青森は母の実家。お父さんは宇都宮時代に心筋梗塞で死んでるから。」

 

と返してくれた。続けて心筋梗塞で死ぬ父の形態模写もやってくれた。父の死に際に彼は居合わせていて、一部始終を見ていたらしい。

 

その演技は似てるとも似てないともわからないが、決して冗談でやるレベルではない鬼気迫る臨場感があった。

 

「ごめん、もういいよそれ」

 

と言ってぼくは彼の形態模写を止めに入った。

 

あまりにもぼくが嫌がるものだから、それからというもの、彼はよく自分のお父さんが死ぬときの形態模写をしてぼくを揶揄うようになった。

 

「体格とか健康診断の値がお父さんに近いらしくてさ、俺もきっとこうして死ぬんだ」

 

と彼は形態模写をする度にそう付け加えるのだった。

 

 

大学2年の秋ごろに、ぼくに彼女ができた。生まれて初めての彼女だった。その影響で一時期は米山君との付き合いが疎遠になった。

 

しかし、そのうち『寂しい街に行く』というカッコ悪い趣味は彼女とは共有できないことに気づき、ぼくは再び米山君と過ごす時間が長くなった。

 

この時期は、米山君が個人事業主として起業した家庭教師業が大当たりしたときであり、ぼくはそのおこぼれに与り、ふたりでよく長期の旅行をした。

佐渡、伊豆、津島、青森。津々浦々の寂しい街を巡った。

 

彼女もできたし、友だちもできたし、2浪でも公務員になれば何とか食っていけるかー、と将来の展望も見えてきた時期だったからか、寂しい街を見てもさほど感傷的な気分にはならなくなっていた。

ぼく以上にこの趣味に前のめりになっている米山君をよそに、ぼくはだんだんと飽き始めていた。

 

 

今でも知らない街を散歩するのは好きだ。もちろん華やかな街よりも、ノスタルジックな寂れた街の方が好きだ。妻にも共感してもらえなさそうだから、話してすらいない趣味。

 

妻に用事がある日、一日中一人で娘の面倒を見なければいけない休日、ぼくは決まって娘をベビーカーに乗せ、ふらふらと知らない街を歩き回る。

 

少し前に、レンタカーを借りて横須賀美術館まで行った。シーサイド美術館という曲にふさわしいような、寂れた風景が見られると思ったからだ。

しかし、実態はその逆だった。

 

それは観音崎の海が一望できるところに立っている、風光明媚な美術館だった。建物はガラス張りで、たくさんの開口部から取り込まれ光で館内は溢れている。ガラスの向こうには、青い空と白い雲、それに颯爽と横切る貨物船が見える。

子供も参加できるアート作品が数多く展示されているおかげか、子連れも多く、平日の午前にも関わらず館内は活気があった。展示品の絵画はよくわからなかったが、美術館自体の雰囲気はとてもよかった。

 

帰りの車の中、「とてもいいものを見たね」「面白かったね」と2歳の娘に話しかける。彼女は「うん」とか「海あったの」とか返した。「そうだね、海あったね」「綺麗な海だったね」とぼくが話す。

 

ぼくは二度とここには来ないだろうけど、彼女はまたここに来ることがあるかもしれない。きっとそれは誰かとのデートだろう。

 

と遠い未来のことをぼんやりと考える。

 

車内、ぼくは2歳の娘を相手に、寂れた街歩きのこと、米山君という友人のことを独り言のように話した。