テクノは生きている

特別お題「今だから話せること

 

ぼくらの結婚式のアルバムをめくりながら、その男は言った。

「これじゃあ細君というよりも"太君(ふとぎみ)"やね」

ぼくは苦笑するしかなく、その男の隣に座った妻は怒ったような声で「これでも40キロ台でした」と答えた。

「150後半で40キロ台だと、BMI的には標準やな 細君っていうのはこういうタイプのことを言うんだよ」

と言って、男は携帯を取り出し、一枚の写真をぼくらに見せてきた。そこには西郷隆盛のようながっしりとした体型のその男と、どう高く見積もっても20代後半にしか見えない若くて細い女が写っていた。

「どう、私の新しい妻 細くて綺麗やろ」

親子ほどの年の差がある新妻を、ぼくと妻に自慢気に見せてきたその男こそ、ぼくの義父、つまり妻の父親だ。

 

「本当にあり得ないデリカシーのなさ」と妻は呆れ、ぼくくらいはお世辞を言わなきゃと思い「若くてお綺麗ですね」と言った。

「そうだろ?そうだろ?坪内くんもやっぱそう思うよな。」

と義父はゴキゲンだったが、本心を言えば、綺麗と言えば綺麗なのだが、切れ目で鼻筋の整った、欧米人が好みそうなアジアンビューティーのその顔は、ぼくがニガテとするところだった。

 

関西で医院を経営している義父は、年に2回ほど、学会に出席する用事で上京し、その度にぼくらは会って一緒に外食をする。妻の両親は数年前に離婚しており、正月やお盆はもっぱら妻の母方の親族と過ごすことが多い。そのため、義父との食事会はとても貴重なものだった。

 

もともと義父と妻とは折り合いが悪く、妻はこの会合自体を敬遠していたのだが、「家を構えたのだし家族として付き合わなきゃ」とぼくが言って、半ば強引に妻を連れてきている。会がお開きになった後の帰り道、妻は決まって「やっぱりあり得ないあの人」とグチを言うのだった。


妻は口癖のように「あの人は発達障害だ」と言う。だから人の心なんて意に介さず暴言をばら撒くのだ、と。
ぼくもはじめは義父がニガテだった。

 

 

「水は低きに流れるな」

 

これは、初顔合わせの際、二浪して中央大学に進学したというぼくの経歴を聞いた際に、義父の口から出た言葉だ。義父の両目は飛んでいるカモメのシルエットのように細く、侮蔑や嘲笑ではなく本心で笑っているのが伺えた。

 

妻にプロポーズをした翌月、ぼくは妻の母方の実家と父方の実家それぞれに挨拶に行った。母方の実家は渋谷にあり、(ゴミ屋敷のため)家に上げてもらえなかった、という点を除いてはとても穏やかな雰囲気で終わったのだが、父方の実家が曲者だった。場所は関西のとある田舎町。義父はそこで大きな医院を経営していた。

 

「安いから夜行バスで行きたい」と言って譲らなかった妻に押し切られ、ぼくらは新宿から夜行バスに揺られ8時間、そこから電車を乗り継ぎ3時間かけ、妻の父方の実家に着いたのは正午ちょうどだった。真夏の強い日光を浴びて、眩いばかりの光を放つ白亜の建物が、目の前にたたずんでいた。関西の寂れた商店街の近くという立地にはどう考えても不釣り合いな、地中海を臨むギリシア風の豪邸が妻の父方の実家だった。


チャイムを押すと、背は180センチ、体重は90キロはあるかと思われる巨体の男が、ぼくらを迎入れてくれた。特徴的な目が妻に似ていたので、すぐ妻の父だということがわかった。義父とはその日が初対面であった。

「遠いところから今日はおおきに」

と言って義父はニコニコしてぼくを手を握った。研ぎ澄まされたような鋭い光りを含んだ切れ長の目には威厳を感じた。対して、ぼくらの寝室よりも大きな玄関の姿見に映るスーツ姿の自分は、とても貧相に見えた。

 

 

山崎豊子原作のドラマで観るような、重厚な造りをしている居間。大理石のテーブルをコの字に囲むレザーのソファ。そこに、義父、義叔母、義祖母、妻、ぼくの5人が座る。
ぼくは婚約者として、彼女の親族たちに自己紹介をする立場だったので、生まれから、学歴、仕事から趣味までをデビッド・カッパーフィールド式に面白おかしく話そうと、前々から原稿まで書いて準備していたのだが、上述のように一言喋るたびに義父が茶々を入れてぼくを揶揄うため、話はまったく進まず有耶無耶になってしまった。

 

そんな中放たれたのが「水は低きに流れるな」という重すぎるパンチライン。この一言でぼくの投了となった。

 

話題は妻の出身校である慶応義塾に関することに移り、そこから慶応閥と東大閥の医局の話になる。途中、義父のもとに実習に来た看護学校生に対する嘲笑などを挟み、医学部入試制度の是非が続く。その日の主役はぼくのはずなのに、先制パンチでノックダウンされていたため、ぼくは終始聞き役に徹した。

 

医者周りの話が続くな、と思ったら義父をはじめ、義祖父母、義叔母も医者だった。非常にお腹が痛い時間が続く。

「そーかー、ぼく自身医者じゃないから歓迎されてないのかー。」

部屋を見回すと、至る所にポケモンカードだったり、Switchのコントローラーだったりと玩具が散乱していた。義叔母の息子の、つまり妻の従弟のものらしかった。18になる彼も将来の目標は医者で、医学部受験のため学校も欠席し、予備校で缶詰になって勉強しているらしかった。

「今日ぐらいは顔を出して坪内さんに挨拶すべきなのに。」

と義叔母はぼくらに謝ったが、彼がいたらきっとぼくは今以上にお腹の痛い話題のなか過ごすことになっただろう。彼の不在にはむしろ感謝したが、義従兄弟にすら軽視されているのには、やっぱり少し傷ついた。

 

用意された寿司とケーキを黙々と食べ、そろそろ帰ろうかとなったところで、2階から義祖父が降りて来た。
義父は義祖父に、

「坪内君は中央大学の出身らしいよ、ほら、父さんの好きな阿部や亀井のいる。」

と声をかけた。
「巨人ープロ野球トークに入れるよう橋渡ししてやったぞ」とばかりに、義父はぼくに目配せするのだが、生憎ぼくは野球好きではない。そもそも「何が好きか?趣味は何か」と言った基本中の基本の質問すら、その時間まで義父から聞かれることもなかったのだから、ぼくが野球が好きかどうかなんて、義父は知っているハズもないのだ。

 

義祖父も義祖父で、孫娘の旦那となるぼくにあまり興味がなさそうだったことが幸して、たいして話が長続きすることなく、その日は2時間足らずその家を出ることができた。

 

 

――中高は超名門校だし、大学はあの大阪大学の医学部だ。決してぼくと同じヒエラルキーの人間だとは思ってない。
けど、中央大学≒巨人軍という義父の連想には、私大文系が必死の形相で走る箱根駅伝をぬくぬくと観る旧帝大理系OBたちのような、奴隷である剣闘士たちの殺し合いを肴に酒を飲むローマ市民のような、侮蔑的な眼差しを感じたんだ。

 

という話を帰り道に妻にしたところ、「そういう被害妄想を患わないためにも学歴はあって損しないよね」と一蹴された。とにかく、義父は人の心がわからない、いや、わかろうとすらしない男なのである。

 

妻は義父のことを「発達障害だ」と言った。周りを逆なでする発言は何も身内だけに限定したものではなく、仕事の上でもそうだったらしい。
もともと学業での立身出世を夢見ていた義父は、町医者なんてショボい仕事を継ぐ気はなく、医学部の教授、ひいてはノーベル医学生理学賞を目指す学者肌のタイプだった。しかし、その不遜とも取れる言動から医局でも煙たがられ、地方の病院を転々とさせられた。着任する病院でも、毎回患者と訴訟を抱えるため、ついには医局でも抱えきれなくなり、実家の医院を継ぐことになったらしい。

 

世が世なら一国一城の大名か山賊の頭になってそうな、豪胆なあの男にも躓きがあり、彼も大きな夢を諦めてしまった人だった、ということを知ってからというもの義父が憎めなくなった。ぼくの中では「そういう人」として消化することにした。

 

関西からの帰りの新幹線で、義父の名前や義父の経営する医院の名前で検索してみると、爆サイの口コミが多数ヒットした。以下が、患者からの苦情の書き込みである。

  • 義父の言うことが、大学病院の主治医が言うことと矛盾していたため説明を求めたところ「医者でもないあなたに説明しても時間の無駄だ。黙って専門家の言うことを聞け」と足蹴にされた。
  • 採血の際に看護師が誤ってしまい血が噴き出してしまった。そのせいで気分が悪くなり横になりたいと言うと、「初潮はまだでしたか?(血なんて毎月見慣れてるでしょうに)」と言って隣の看護師と笑い合っていた。
  • 余計な一言が多い。そのくせ、説明を求めても応じてくれない。

 

なんだ被害者はぼくだけではないのか、と思うと急に気持ちが晴れてきた。義父は何もぼくが嫌いだったから意地悪をしてきたわけではなく、誰に対してあれなんだと。
ぼく自身、実父との関係はあまり良好ではなかった。父は人格者だが、自分にも他人にも厳しい星一徹のようなタイプで、兄弟の中でも特に不器用なぼくはよく怒られたものだった。それに比べると、傍若無人ながらも距離を感じない義父の方に、ぼくは親近感すら覚え始めていた。

 

 

義父は馴染みの風俗が渋谷にあるらしく、学会の開催場所が東京駅であろうと、みなとみらいであろうと、決まって道玄坂にホテルを取った。ぼくらが義父と食事をするのも、道玄坂が多かった。コロナ禍前はよく妻と義父の三人でバーに行った。

 

食通を自称する義父はお酒にも相当詳しく、お金もあるものだから、ぼくの知らないお酒を次々と頼む。しかし飲み方は決まってトニックソーダ割。山崎やソビエトウイスキーですら、甘ったるいトニックソーダで割ってがぶがぶ飲むのだから、ムードも何もあったものじゃなかった。馬鹿舌だ。しかし、そのおかげかぼくは畏まることなくリラックスして義父と話すことができた。

 

あるとき、義父、妻、ぼく、の3人でバーで飲んでいると、妻がガラの悪い男たちに絡まれたことがあった。妻も妻で小さいくせに喧嘩っ早く、売り言葉に買い言葉で一気に緊迫した雰囲気になった。「どうやってことを収めようか」とぼくがビビッていると、

「まぁまぁ、ええがな、ええがな」

といつの間にか席を立っていた義父が、いつものニコニコ笑顔で隣のグループの席にどしっと座っていた。

「お兄さんたちどちらから来たの?」

と会話を始め、5分もしないうちに騒動は解決していた。

「あんなのでビビってちゃ医者なんてやれんよ」

と義父はまたニコニコとぼくらに語ってくれた。この人がモテるのは何も医者ブランドがあるからだけではないな、と思った。胆力のあるこの男は、ここぞというときに頼りになるのだ。

 

 

ぼくと義父がふたりで飲んでいたとき、義父は現在交際中の女性のリストをぼくに見せてくれたことがあった。バーの小さな円形のテーブルの上に置かれたノートパソコンをぽちぽち叩くと、女性の写真から名前、年齢、学歴、スリーサイズ(推定)、これまでのデート履歴等々がまとめられた、図鑑のようなソフトをが表示された。そのソフトは義父自らが作ったという。

 

収録されている女性は20名ほどいて、みな結婚相談所の紹介らしい。その時期はまだ前妻、つまり妻の母との離婚が正式に決まったばかりの時期だった。上述した細くて若い未来の細君もその図鑑に収録されていた。カラダの相性なんていう項目もそこにはあった。

 

「坪内君は最近アッチの方はどうなの?」と義父がぼくに聞いてきた。

「もちろん、娘とのことじゃないよ。若いんだし他にもいるでしょ?」

通常の親族関係だったら、義父にそんなこと聞かれようものなら、「冗談はよしてくださいよ」と軽く流すものなのだが、義父という人の人間性に妙な信頼があったぼくは、「ないこともないですよ」と馬鹿正直にもある恋のことを話した。

 

――その人と知り合ったの、恋仲になり肉体関係を持ったのは、まだ独身のとき(といってもゆみとは交際中のとき)でした。とても気立てがいい人で、タヌキみたいな大きなタレ目をしている綺麗なひとです。

 

と話し始めたところ、

「タヌキ目って何がいいの?最近の若い子はそんなメイクばかりだよね。」

と義父がぼくの話に割って入る。終始話はそんな感じで、義父はぼくの話を聞く気があるのかないのかわからない態度だったが、お酒も入り気分がおセンチになっていたぼくは話を続けた。

 

――肉体関係、といっても交わしたのは2回だけなので、関係というほど継続的なものではありませんでした。当時ぼくはゆみと婚約しており、相手もそのことを知っていたんですよ。ぼくはこれ以上、相手が好きになってしまうのが怖かったです。それと同じくらい、こう言うと傲慢に聞こえるかもしれませんが、彼女のきらきらと輝くものをぼくなんかに浪費させたくなかった。

 

「なんやそれ。」

 

――山口百恵の「ひと夏の経験」って歌にもあるじゃないですか。女の子は体を交わると、内面に秘めた神秘性というか、その価値のようなものが減価されてしまうような感覚がぼくにはあって。

 

「そんなことない。セックスした方が女性ホルモン活発に出てキレイになるよ。」

 

――彼女のことばかりを考えていると、へんな疑念に囚われてしまったんですよ。ちょうどそのとき、彼女はいろんな問題の渦中にいて。ともすると彼女は、自傷行為の一環として、自身の青春を遺棄するための道具としてぼくとの恋愛を利用していないかという、ねじ曲がった疑念が。

 

「坪内君はさぁ、何歳まで童貞だったの?初体験はいくつ?」

 

――20です。

 

「なら私と同じだね。わかる。童貞長引かせるとそうなるよな。」

 

勝手に相談しておいて失礼な話だが、無遠慮な人間であるところの義父には、けっしてぼくの繊細な恋愛感情なんて分かるわけがない、と思ったので無視して話を続けた。

 

――そうと決まったわけでもないのに、自傷行為の道具としてぼくが使われていると思うと、今度は自分が惨めになってきたんです。コッチはゆみという婚約者がいながら、それを失う覚悟で浮気をしてて、でも「本気で好きになったらマズイ」と思ってでも一日中考えちゃって精神を消耗させているのに、相手の人生においては、きっとぼくという存在は汚点にしかならないじゃないですか。

 

「そんなによい子だったの?写真見せて」

 

――ゆみに全部消されちゃいました。

 

「バレたの?」

 

――はい

 

「携帯じゃなくてパソコンで、私みたいにしっかり管理した方がええよ」

 

それで話は終わり、その日は「別のお店に行ってくる」という義父を道玄坂まで送り、ぼくは一人田園都市線に乗って家に帰った。

酔いが覚めてくると、「いくら爆サイお墨付きの豪放男とは言え、妻の父である義父にこんな相談するのはマズかったな」と後悔が追っかけてきた。しかし、その不安は的中することなく、今日まで義父からこの話に関する言及を受けたことがない。忘れてしまったのか、そもそも取るに足らない話として聞いてすらいなかったのか。
ともかく、ぼくの恋愛相談に対する回答は「浮気相手はパソコンで管理しろ」の他はなかった。

 

 

彼女との肉体関係が終わって以降も、ぼくは彼女と数回会った。街歩きをしたり、夜桜を見に行ったりして、デートのような何かを楽しんだ。妻に彼女との関係がバレたのはちょうどこのときで、ぼくは「(もう)エッチはしていない」と抗弁したのだが、

「それが事実ならなおキモ過ぎだ!」

と言って妻はぼくをなじった。
肉体関係があるのであれば、まだ風俗として利用してた、と割り切ることができる。けど、オマエは今時田舎の中学生でもしないようなプラトニックな姿勢で向き合おうとしている。それがたまらなく腹が立つ、と言うのだ。
妻の言うことはもっともだ。

 

「オマエが1回別の女と寝たら、私は10回別の男と寝る」

と妻はイザナギとイザナミの応酬のような宣言をし、後日、妻は実際にそれをやってのけた。


「これなんだと思う」と言ってある日妻が見せてきたのは、知らない男に肩を抱かれながらドライヤーをかける自撮り写真だった。先週の朝帰りはおそらくそれだな、と予想がついていたが、写真で見せられるとやっぱりショックだった。相手は妻の大学の先輩で、講談社に勤めるエリートサラリーマンだった。

「あと9回だからね」

と妻は続けたが、それからややあって

「なんでオマエのせいで私が自分のカラダを安売りしないといけんの」

と怒り始め、残りの9回は保留となった。

 

 

そうしているうちにコロナ禍が来た。
職場での飲み会はもちろん、外出や(妻のみ)出勤さえも減り、娘も生まれた。家で過ごす時間が長くなり、妻とはそれまで以上にたくさん会話をした。意識的にそうしたわけではなく、車もNetflixもゲーム機もないウチにはそれ以外の娯楽がなかった。

 

妻は高校時代、ミニ雑誌部という文化系の部活に所属していたのだが、その活動内容については聞いたことがなかった。

 

「ミニ雑誌部があるってことはさ、雑誌部もあったんだよね?」

 

「うん、ミニ雑誌部は雑誌部の部室を間借りしていたよ」

 

「両者の違いってなに?もしかして身長制限とか?」

 

――妻の身長は158cm。よく"ハムスターみたいだね"と身長のことをいじっていた。

 

「まさか。純文学やジャーナリズムをやるのが雑誌部で、ミニ雑誌部は漫画とか」

 

そう答えると、妻は押入れの奥の段ボールの中から、ミニ雑誌部で出したという同人誌を取り出して見せてくれた。林真理子の小説の書評がイラスト付きで描いてあった。妻の絵だ。
そうして話題は林真理子に移る。

 

趣味や生い立ちや家族関係といったコアな部分の話は、お互いとっくの昔に話し尽くしてしまっているものだから、人生における傍流中の傍流のものが話題に上がるようになった。

 

まだ義父が勤務医だったころ、上述した傍若無人の性格が災いして、周囲とのいざこざが絶えず、それに対する医局の配慮で毎年転勤を繰り返している時期があった。妻もその転勤に同伴したため、小学校の6年間だけで5つもの学校渡り歩いたという。さながら旅芸人のようだ。
ぼくの家は自営業だったため、そうした転校の経験はない。

 

「転校って辛かった?田舎のコミュニティにすぐ馴染めた?」

 

「すぐに馴染めて楽しかった学校もあったけど、ほとんどの学校が馴染めなかった。教室ではずっとハム太郎の絵ばかり描いていた。」

 

ぼくと結婚するくらいだから、妻もそれほど社交的な性格ではない。やっぱり辛かったことの方が多いようだった。

 

転校ばかりしていた妻の小学生時代は、妻の両親の仲が最悪だった時期とも重なっている。妻にとっては内憂外患。転校先の学校での孤立よりも、家の中での両親の喧嘩の方が見ていて辛かったらしく、転校での苦労など妻にとっては些細なこととして消化されていた。
そのため、「なんか嫌だったなぁ」という記憶はあれども、ほとんどのことを忘れており、どれだけぼくが深堀りしようとしても、話題は違う方へ違う方へと移って行ってしまうのである。本人が語るに足りない、と思っているところにこそ、その人を形作った何かが眠っているよな気がして、ぼくはどうしても妻の小学生時代を深堀したかった。

 

2020年から3年ほどコロナ禍は続いた。幸いにして、ぼくらに話す時間はたっぷりあった。事あるごとにぼくは妻に小学生時代の話を聞いた。その断片の寄せ集めると、ある一つのエピソードを組み立てることができた。小学6年生のとき、学校で飼っていたウサギの『テクノ』の話だ。

 

 

妻の父は東京の大学病院で勤務していたため、医局から言い渡される異動先は遠くても千葉や茨城と言った関東圏が原則だった。そのはずだったが、異動の回数が増えるにつれて、その範囲は広がっていき、妻が小学6年生のときには、ついに大阪の岸和田が異動先になった。


「これはつまりそういうことやろ」と父は家の中でも不機嫌になった。母は母で、表参道でのランチとジャニーズ番組の公開収録を好むミーハーな女性だったため、岸和田の水は合わなかったらしい。家庭内で喧嘩が日常茶飯事になった。

 

妻はそんな家に帰るのが嫌で、かといって学校にもあまり馴染めなかったので、避難先として塾に通うことにした。

「塾に通って勉強したい」

と妻が両親に告げたとき、ついにこの子も医者を継ぐ意志が固まって来たんだ、といつもは喧嘩ばかりしていた両親もたいそう喜んだ。しかし、妻は勉強がしたかったわけではなかったので、私立中学入試を見据え、地元のトップ層が集まる塾ではすぐに落ちこぼれてしまった。結局、妻は塾でもハム太郎の絵ばかりを描いて時間を潰していた。

 

妻は学校で生き物係を担当していた。校庭の隅にある動物小屋で飼っている小動物たちの面倒を見る係だ。妻はウサギやヒヨコといった動物が好きだったので、4月の係決めの際に自ら手を挙げてなった係であった。しかし、その学校では生き物係は人気のないハズレ係だったらしく、最終的に決定したメンバーは、妻のような転校生や、いじめられっ子といったスクールカーストが低い人たちだった。


なぜ生き物係は人気がないかというと、夏休みやゴールデンウイークにも登校して、餌やりや小屋の掃除が義務付けられていたからだ。妻はそういった事情を知らずに生き物係になったのだが、それも妻にとっては悪いことではなかった。休みの日は家にいるよりも、学校で動物たちの世話をしていた方が幾分かマシだった。

 

学校で飼っている動物の中に、ウサギの『テクノ』がいた。なぜテクノという名前が付けられたのかは謎だったが、テクノが小さいころ、野良猫の襲撃を受けて足の腱を噛まれてしまったことが、おそらくその由来らしかった。
左後ろ足に障害を持つテクノは、そこを常にちょこんと折り曲げて、三本足でテクテクと歩く。それだからテクノ、といったところだろうか。

 

動物小屋の中ではウサギの他に、カメとニワトリが飼われていた。小屋の中には動物別にケージが分かれていたのだが、ウサギについては「繁殖の恐れがあるから」という理由で、特に厳重にオスメス分けて飼育されていた。
掃除する際、一時的に彼らをケージから出すだが、オスのウサギは交尾しようとメスのウサギを襲い始めるため、彼らを引き離すのは大変だったらしい。しかしテクノは別。歩くのがトロく、メスからもろくに相手にされない彼に交尾の心配などなかった。


妻の目には、運動ができないせいで全然モテないテクノが、自分を含めた冴えない容姿の生き物係のメンバーたちとダブって見えたらしい。そのせいか、妻はテクノを愛おしく思ったのだが、生き物係のメンバーの中にはテクノをことさら虐める人もいて、妻はよくそのことで喧嘩をした。内向的ながらも正義感の強い妻らしい話だ。

 

夏休みも中盤になると、初めのころは登校してきた生き物係のメンバーも一人、また一人と来なくなり、最終的に残ったのは妻と、生き物係の中でもとりわけドンくさい男の子のみになった。彼の名前は松田くん(妻は下の名前は覚えていないらしい)。松田くんが掃除を担当し、妻が餌やりと施錠を担当した。


転校してきたばかりで友達はいなく、塾も中学受験対策が本格化し取り残されてしまった妻にとって、その時間は苦ではなかった。可愛いウサギに癒され、ニワトリにビビり、松田くんとテレビアニメの話をしてバイバイする。転校が多く、小学生時代にあまり良い思い出がない妻にとって、数少ない牧歌的な思い出だった。

 

その年の大晦日、正午ごろに松田くんから妻の家に電話が入る。

「テクノが居なくなっちゃった。テクノが居なくなっちゃったんだ。」

と何やら慌てていて要領を得ない内容だった。「会って事情を話したい」「一緒にテクノを探そう」と松田君は続けた。どうやらテクノが小屋からいなくなってしまったらしい。
確かにテクノは可愛がっていたが、それよりも大晦日のテレビ番組の方が楽しみだった妻にとっては、正直めんどうだとは思ったが、松田くんがあまりにも必死だったから学校で落ち合うことにして家を出た。

 

学校に着くと動物小屋の前で松田くんがポツンと一人で立っていた。

「先生たちにも、生き物係のみんなにも電話したけど他はだれも来てくれないんだ」

と今にも泣きそうな顔で松田くん。案の定、妻に事の顛末(といっても、登校して餌をやろうと解錠しようとしたら、鍵がすでに開いていることに気づき、テクノだけがいなくなっていた、というだけのこと)を話している最中、彼はオンオンと泣いてしまった。

前日の12月30日は、妻と松田くんの二人で小屋の大掃除を行っており、妻には確かに鍵を閉めた記憶がある。また、ウサギたちは交尾をしないように小屋の中でもケージに入れているため、仮に鍵の閉め忘れだとしても、テクノが逃げ出すことは不可能だ。

「誰かがカギを開けて逃がしたんだろうね」

と妻が言った。ダイソーで買えるような貧相な錠前のことだ、ピッキングなんて素人でも簡単にできるに違いない。

 

妻には一つ思い当たる節があった。それは、生き物係を担当する顧問の先生から聞いた話だ。
何でも、2つ上の代のときに、地域の不良中学生たちの間で飼育小屋の動物たちにいたずらする、という遊びが流行ったらしい。彼らは飼育小屋のトタン外壁を剥がしたり、鍵を壊したりしては、中にいるウサギたちに交尾をさせ、空気銃でニワトリを打ったりして遊んでいたらしい。そのとき、不幸にも小屋の外に放たれ、野良猫に襲われてしまったのが、子ウサギのテクノだった。

 

きっとテクノは、また不良たちのオモチャになってヒドイ目に遭ったに違いない。妻の推理を聞くと、松田くんはさらに大きな声でオンオンと泣くのだった。

 

それから、「テクノは足が悪いからそう遠くには行けないはず」と妻が泣いてばかりの松田くんの尻を叩き、辺りを捜索したのだが、テクノを見つけることはできなかった。早く家に帰ってドラえもんスペシャルを観たかった妻は、日が暮れて来たことを口実に、明日また捜索を再開することにして、その日は解散した。


元旦は寒く、またテレビ番組が面白かったため、妻は約束を守らず学校には行かなかった。結局テクノは見つかることなかった。松田くんは三が日まるまるテクノを探していたようで、約束していた捜索をすっぽかしてしまった妻はそのことに罪悪感を覚え、この出来事以降松田くんとは口を利かないようになってしまった。


そうこうしているうちに、妻と松田くんは卒業の日を迎える。

 

その間、妻の父は医局から事実上の戦力外通告を受けた。彼のプライドがそれを許さず、喧嘩別れのような形で彼は医局を辞め、関西の実家の医院を継ぐことになった。
妻の母は東京に帰るという夢が断たれた。
転勤がなくなったことから、後顧の憂い無く私立中学受験ができるようになった、ハズだったが、塾ではハム太郎の絵ばかりを描き、休日は動物の世話ばかりをしていた妻の受験は案の定ダメで、関西の有名私立中学に軒並み落ちてしまった。

 

「頭はお前に似たんだな」

 

「子供と向き合ったこともないのに何よ」

 

両親の喧嘩は激しさを増す。妻の中学受験の失敗が最後の決め手となって、夫婦仲は修復不可能となった。卒業式の翌日、妻の母は妻を連れて、夜逃げ同然で岸和田から渋谷の実家に戻った。そこから長い長い別居生活が始まる。

 

妻の母の実家は、渋谷でもとりわけ裕福な人たちが住む地区にある。妻の母の母、つまり妻の祖母は50のときに夫―つまり妻から言えば祖父―を亡くしており、それからは残された遺産を使って株式投資と不動産投資に励んだ。
時はバブル前夜で、妻の祖母の投機としか言えない超積極的な投資姿勢は当たりに当たりひと財産築いた……のだが、バブル崩壊と長引く平成不況の結果、収入は年金、資産は渋谷のマンションのみになっていた。


そこに転がり込んできた無職の娘(元医者の妻専業主婦歴15年)と孫。ここで始まる女三代の貧困共同生活の話も面白いのだが、それは割愛して、妻の中学生活の話に焦点を当てる。

 

東京都心の裕福な地区の住民というのは、特段の事情がない限りはみな私立の中学に子どもを通わせるもので、上位層である"上澄み"どころか中間層である"中汲み"までもが私立中学に進学する。そのため、公立中学に進学するのは必然的に下位層である"よどみ"となる。
地方のヤンキー高校のようなコミュニティに、転校生として入った妻の苦労は筆舌に尽くし難いものがあったようで、この時期の学校生活については「死にたかったもん」の一点張りで深堀するのが憚られた。

 

両親の別居によって内憂は弱くなったものの、今度は外患が強くなったこの時期、岸和田の松田くんから手紙が届く。

「別居先の住所を教えた記憶がないから、おそらく父から聞いたのかも」

と妻。内容は記憶にあまり残らないほど平凡なもので、中学ではバレー部に入ったとか、生き物係の〇〇が交通事故で骨折したとか、そういったものだった。中学で友達もできず暇を持て余していた妻も、日常の些細なことを書いて松田くんに返事を書いた。その後もやり取りは続き、松田くんとの文通は始まった。

「内容はあまり覚えていない」

と妻。松田くんからは唯一の共通の知人である生き物係のメンバーの近状や、小学校の動物たちの話が続くが、一年間しかいなかった小学校に妻はそれほど思い入れがなく、その内容は妻に響かなかったようだった。

 

冬休みのある日、下宿先の祖母のマンションの給湯器が壊れてしまった。その頃から、母のごみ収集癖が始まっており、家は床が見えないほどゴミに溢れていた。
「給湯器の修理と言えども家に人を上げたくない!」という母のわがままのせいで、給湯器の修理はいつまでたっても行われず、しょうがないので一家は近所の区民プールを銭湯代わりに利用するようになる。そこでの出会いから、妻に初めての中学の友人ができた。

 


ひとり友人ができると、その友人経由で交流の輪は大きくなっていき、中学2年生に上がるころには、学校が苦ではなくなっていた。現実が充実すればするほど、それに反比例して松田くんとの文通への関心が低くなる。一週間、一か月、と妻からの返信は間延びし、しまいには返信を書かなくなってしまった。

 

ある日、返信をまだ出していないのに、松田くんから手紙が届いていた。内心「めんどうだなぁ」と思って開いた手紙には「テクノは生きていたんだ」と書いてあった。

 

――先日、近所の公園で三本足でテクテク歩くウサギを見たんだ。
あれは間違えなくテクノだったよ!

 

テクノを追ったが藪の中に入られてしまい、見失ってしまった。と文章は続いた。「嘘だぁ」と妻は思った。仮にテクノが本当に生きてようとも、それは当時の妻にとってはどうでもよいことだった。
その手紙にも妻は返事を書かなかった。以来、松田くんからの手紙が届くことはなかった。

 

 

一連の妻とテクノと松田くんの話は、ひとつの話として、体系的に妻がぼくに語ったものではない。3年という長いコロナ禍の間、妻との話から断片的に出てきた情報をぼくの中で組み立てたものだ。結合の仕方には、ぼくの恣意的な解釈によるところが大きくあるかもしれない。
また、妻にとっては、語るに足らない出来事だったので、例えば松田くんの人間像なんかについては、もっと簡素にしか妻の口からは言及されていなかったかもしれない。登場人物の感情や描写について、ぼくの方で脚色している部分が大きいかもしれない。

 

しかし、妻の話を統合するに、なんだかぼくはとても大きな物語を聞いたような、そんな気分になってしまった。こうしたエピソードの積み重ねが、血となり肉となり今の妻を形作っている。そう思うと、もっと話を聞きたくなった。

 

「なるほど、これが愛ってことか」

と独りよがりになっていた矢先、エーリッヒ・フロムの『愛するということ』を読み直していると、

「帰納法的に、個々のエピソードから相手をリバースエンジニアリングするそれは、単なる所有欲の表れだ。」

と書かれており、ピシャリと頬を叩かれた気分になった。少し一緒にいたくらいで相手を理解した気になるのは傲慢らしい。ぼくなんかよりも、むしろ松田くんの方を、より愛を知る人としてフロムは褒めていた。フロムの言うところの愛を知る人と所謂ストーカーの違いが、何度読み直してもぼくには理解できなかった。

 

 

――愛するということ

これは、上述した彼女から貰ったものだ。

 

 

横浜で新居探して称してふたり街歩きした夜、「私はもう読んだので」と言われ渡された。帯にはモデルの杏がコメントを書いており、「偉そうに書いているけど、まさか東出さんの不倫騒動で渦中の人になるとはね」と彼女とふたり笑ったものだ。

 

それから焼肉を食べながら、横浜で始まる彼女の新生活の話や、愛についての話をした。「読んだことがない」というぼくに対し、彼女は本の概要を説明してくれ、愛についての警句のようなものを話してくれた。

――本来の愛の在り方、愛するという能動的な姿勢こそ愛の本質であるということ。

しかし、読んだことがないというのは嘘で、実は以前に読んだことがあった。

「フロムを既読しといてその不埒な火遊びに人巻き込む生き方はなんだ」

と言われるような気がして、咄嗟に嘘をついた。

 

その晩に話した「愛」についてのやり取りよりも、日中、みなとみらいの新築高層マンション群を見て彼女が漏らした「自殺しちゃいそうですね」という独り言の方が、ぼくにはずっと引っかかっていた。
どんな人生を歩んでいたらあんな言葉が出るのだろうか。それを理解するためにも、学校給食は何が好きだったか、飼っていた犬の名前候補には何があったか、そうした些細なことが、あの日以来知りたくてならない。コロナ禍になり、娘が産まれ、彼女とはもう会うこともなくなってしまった。

 

 

詳細に書くことはおろか、まだ"彼女"としか書けない、松田くんのようにテキトウな固有名詞さえも振ることがすらできないのは、きっとまだ思い出が目を突き刺すほど鮮明すぎるからだ。


いつか消化できる日が来るかもしれない。そのときは彼女の記憶なんかもおぼろげになって、恣意的な解釈のによって余白を埋めて、きっと彼女のことを理解した気になってるかもしれない。
もしくは一生気になったまま年を取る。それもそれで、今は悪くないように思えてきた。妻の中ではとっくの昔にテクノは死んでいたが、松田くんの中ではまだ、テクノは生きていたように。

 


桜の季節になると思い出す。気立てがよく、たぬき顔で、背の高くて、22日はローソンで苺が乗ったロールケーキを買う。地元沖縄ではもちろん、東京都心だってまずお目にかかることがない、ぼくより細い女の子だった。