30歳になりました。
もう立派なおじさんです。
職場やツイッターとかでも若者界のベテラン気取りな言動は慎み、おじさん界のニューフェイスとして、慎ましく老いて行こうと決めました。
……しかし年を取るのはやっぱ嫌だ。もうカート・コバーンのことを"カートくん"と呼ぶサブカル気取りの生意気な少女とは、きっと金を払っても恋愛なんてできないんだろう。
そんなことを考えながらトボトボと帰宅したら、真っ暗な玄関にはのんちゃんを抱いた妻が立っていた。
「どうしたの?」
と聞くと、産後の妻を心配して義母が病院を抜け出し押しかけてきたらしい。それで暴れてる、と。
意味がわからなかったが、震える彼女らとリビングから聞こえてくる「死にたい」だの「もういや」だの奇声にはとても説得力があった。
ーここにいたらマズイ。ぼくは妻を連れて家を出た。新生児の赤ん坊を抱っこしながら、親子3人でコンビニのイートインスペースで時間を過ごした。
22時。家に帰る。奇声はもう聞こえない。キッチンには倒れた彼女の姿があった。
「母、君のためにね、チャーハンを作ろうとしたの。でも、そんな手の込んだ料理したことない人だから、それがプレッシャーになったんだろうね。」
侮蔑の眼差しを向けるぼくとは違い、普段は母に厳しかった妻は優しい目で彼女を見ていた。
「病人が病人なりに、母として、祖母として、娘夫婦の子育てを手伝いたかったんだよ。」
それはわかる。ぼくだって病気だ。理解がある方だとは思う。けど、子育てに追われる寝不足な日々が続き、不器用な義母をそう愛おしく思える余裕もない。
ぼくが30になるということは、カートくんの自殺衝動に上から目線で共感していたあの少女も、今年で30になったということ。生きていればの話だけど。
若い女性の特権である脆さや儚さに伴う性的魅力なんか捨てて、老いに応じた魅力を身に着け案外うまくやってたりするのだろうか。