下北沢散歩

「30年前のバブル真っ只中では夢の億ションだったのよ」

 

と義母が見上げながら自慢げに話すそのマンションが妻の実家。ぼくは未だ上がったことはない。

 

婚約の挨拶を済ませても、入籍してもぼくは妻の実家には上がらせて貰えなかった。学歴とかのことが引っかかって、義母にはまだ許されていないのか、と一時期疑っていたけど実はそんなことなくて、室内が足の踏み場もないゴミ屋敷なことがその理由だった。妻が隠し撮りした室内の写真を見た。まごうことなきゴミ屋敷だ。

 

最高値で1億を付けたそのマンションも、今では4,000万円まで落ちている。

 

10月は妻の母の誕生日がある。ぼくら夫婦は毎年、彼女を家に呼びその誕生日を祝った。

 

「50にもなって誕生日を祝うことなくない?」

 

と毎年ぼくはその開催に否定的に言うのだが、その度毎に妻は

 

「誕生会を開かないとあの人機嫌を悪くするから」

 

と言って開催を譲らないのだ。しょうがないので、例年ぼくも一緒に料理を作ったり、プレゼントを買いに行ったりした。

しかし今年は違った。

 

「もう子供も出来たんだし私達がママの誕生会することなくない?」

 

と反対に妻がその開催に否定的な立場を取るようになった。

 

「そういうわけで、今年から誕生会とかしないから」

 

と妻が義母に電話で伝えた際、義母は荒れに荒れた。

 

「私のことがキライになったの?!」

 

と電話の向こう側で何度も何度も泣き叫び抗議する義母の声が、隣の部屋にいたぼくの方にまで聞こえてきた。

 

「これ以上私はムリ」と降りた妻とバトンタッチして、ぼくが交渉を続けた。結果、誕生会の開催場所をぼくらの家ではなく義母の家近くのレストランとする、というところに落ち着いた。

 

義母の誕生会当日、ぼくと妻と娘の3人は小田急線に乗って代々木上原駅に向かった。

 

「せっかく代々木上原開催なら、きみの実家に上がれないかな?」

 

「あんな毒沼地みたいなゴミ屋敷にのんちゃんを上げたくない」

 

「あと数年後にはさ、のんちゃんが『沖縄のパパの実家にはよく行くのに、なんで渋谷のママの実家には行ったことないの?』って聞いてくるんじゃないかな」

 

「そのときはこの写真を見せるよ」

 

妻がぼくに手渡した携帯の画面には、服や雑誌やラジカセやゴルフセットやキャリーケースやらで、床下どころか天井が見えないほど散乱した部屋が写っていた。

 

「この間帰った際に撮ったの。ほら、こんなのもある」

 

キッチンの蛇口に黒く薄汚れたビニール袋がかけてある。

 

「キッチンの蛇口が壊れてるの。部屋がこんなんだから恥ずかしくて修理業者呼べないって。ポタポタ垂れる水の音が不快だからってビニール袋を掛けてさ。」

 

お風呂場の給湯器も10年以上前から故障しており、使用不可となったお風呂は他の部屋同様物置と化しているらしい。

 

「ほら、これが寝床の写真。寝室もゴミだらけだから廊下に布団を敷いて寝てるの」

 

布団の左右にはファイルやら未開封のお菓子の箱やらが隙間なく積まれていた。

 

 

代々木上原駅で義母と会い、予約していたレストランで食事をした。今年だけでも20万円を義母に貸していることを理由に、今年のプレゼントはなし。その点には不快そうにしていたが、初孫ののんちゃんが可愛いものだから終始機嫌は良い。

会は1時間ちょっとでお開きになった。

 

代々木上原の改札前で義母と別れた後、「久しぶりに地元を歩きたくなった」と妻が言ったので下北沢まで散歩することになった。交代でベビーカーを押す。

 

「おっきな家だね~。どこかの社長さんの家かな」

 

「こんな住宅街に美容室なんてあるんだ。ひぇ~カットだけで8,000円だって」

 

「芸能人とかに会わないかな」

 

地元だというくせに、妻の発言はお登りさんであるぼくのそれと大差なかった。

 

「たまたま通ったことない裏道だった」

 

と妻は言い訳をしたけど、土地勘がないのは傍から見てわかった。

 

幼少期から高校入学まで旅芸人並みの頻度で引っ越しを繰り返した妻には地元がない。彼女が『地元』と呼んで憚らない渋谷区の代々木上原にだって5年ちょっとしか住んでない。

 

妻の父、つまりぼくの義父は勤務医だった時期がある。その間、医局の命令で北は宇都宮から南はオーストラリアまで、毎年のように点々と住居を変えた。義父が勤務医を辞め関西にある実家の医院を継いでからは夫婦間の不仲が最高潮に達し、別居や出戻りで何度も引っ越しを繰り返した。

中三の冬の4度の別居で夫婦関係は終わりを迎えた。以後3年間、娘である妻の親権を争った泥沼の法廷闘争が続く。

 

半ば夜逃げのような形で妻を連れて義父の元を離れた義母には資力がなく、義母は実家である代々木上原の母(ぼくからしたら義祖母)のもとに転がり込む。

 

バブル崩壊とともに親族の遺産を使い果たし年金だけが頼りだった義祖母と、お嬢様育ちで労働には不慣れだった義母とまだ中学生の妻が同一世帯となった。

貧困になるのは火を見るよりも明らかだった。

 

代々木上原のマンションの給湯器は壊れていた。風呂には入れないので入浴は週2の区民プール通いと週1の銭湯。

 

塾に行くお金は愚か教科書代もないので、妻は高1にして学業のためにアルバイトを始めた。

 

服は原宿の1,000〜2,000円の古着で済ませ、友人たちと外食してもダイエットを理由に飲み物しか注文しなかった。

 

「ここが通ってた区民プール」

 

「ここのマックと、あそこのカード屋と、ここのフレッシュネスでバイトしてたの」

 

代々木上原から下北沢までの風景で、妻が饒舌に語ったところには全て当時の苦労の匂いがした。

 

開業医の一人娘として生まれ、シングルマザーの母親のもとで思春期を過ごした彼女は、豊かさもも貧しさも知っている。高低差で極度に貧しさに対する怯えを抱きそうなものだが、彼女にはそれがない。

 

傍から妻の話を聞くぼくからしたら「辛かっただろうなぁ」としか感想を抱けない。そんな極貧時代の思春期を過ごした街並みを歩きながら、妻は目をキラキラさせながら楽しそうに昔のバイト仲間の話や、区民プールにいたへんな婆さんの話をしてくれた。 

 

「もし父と母が最終的な別居を決めた日に戻れたとしたら、また母に付いていく?」

 

とぼくが聞くと、妻は

 

「ほっておけないから、やっぱりママについていくと思う」

 

と即答した。

 

結婚しのんちゃんが生まれ、今や「あんな弱い女キライ」と義母のことを軽蔑している妻だけど、当時の義母のことを思ったらやっぱり見捨てられないらしい。

 

愛があれば貧困も楽しいものだよ

 

と妻。

 

親族関係はけっこう面倒くさいが、これだけ美しい人が育った。そういう点においては、学歴と年収で人を測る義父と、浪費家でワガママで内弁慶な義母に感謝してる。