「愛するということ」 ーエーリッヒ・フロム

 

はじめに

この本は巷にあふれる恋愛本とは違い、「愛される技術」を学ぶ本ではなく、「愛とは何か」という根本的な問いを通じて「愛する技術」を学ぶ本である。

 

第一章 愛は技術か

世間が愛について勘違いしている点は、大きく分けて3つある。

 

愛の問題とは受動的な問題だという誤解

多くの人々が「愛とは一種の感情であり、運が良ければそこに"落ちる"ものである。」と誤解している。そのため、たいていの人は愛の問題を、"愛する”という能動的な問題ではなく、"愛される"という受動的な問題として捉えている。

どうすれば愛されるか、どうすれば愛される人間になれるか、ということが、愛における大きな関心事になっている。

 

愛は対象に依存するものだという誤解

愛することは簡単だが、愛するにふさわしい相手、あるいは愛されるのにふさわしい相手を見つけるのは難しい、と、人々は考えている。

資本主義全盛の昨今において、愛もその例外ではなく市場で取引されるものであり、恋心を抱ける相手は自分自身と交換できる範囲の「商品」に限られており、その中から私は「お買い得品」を探す。

「そろそろ恋愛したいんだけど出会いがない」というよく聞くセリフのなかには、「愛することができないのは、私にふさわしい対象がいなから」という他責的なニュアンスが含まれている。

 

愛と恋は同一のものであるという誤解

まるで落とし穴に落ちるかのように、無意識のうち"落ちる"恋がー性的に引き付けあって結ばれるという、あの胸躍るような感情がー愛であるという誤解から、「愛については学ぶものではなく感情の赴くままに任せればよい」という言説が昔から巷にまかり通っている。

 

美しい音楽を評価できるのは訓練された耳を持つ音楽家だけであるように、本当の愛を行い、評価できるようになるためには技術が必要である。愛の技術を習得するためには、その他の技術同様に理論への精通と日ごろの習練が必要である。

 

第二章 愛の理論

なぜ愛が必要か

人間にはなぜ愛が必要か、それを論じるにあたって、「愛する」という行為の主体である自分自身の実存についての理論から始めていく。

 その他の動物とは違い、強い理性を持った人間は自分が自分自身であること、つまり”外界から独立した一個の個人であること"を自覚している。

孤独とはそうした認知機能の副産物であり、孤独だという意識から不安が生まれる。人間の最も強い欲求とはこの孤独を克服することに他ならない。完全な孤独という恐怖感を克服するためには、愛を通じて他社との合一を得るほかには、外界の消すほどの徹底した引きこもり以外方法はない。(外界を消すことができれば、自己が世界のすべてとなり、相対的に孤独を消すことができるからだ。)

愛とは詰まるところ、孤独な私が対象と同一になることを通じて孤独から脱するための手段としての行動あり、その結果としての状態である。

 

男女の愛

男女間の愛とは、フロイトの言うように「単なる性衝動の表出」であろうか。たしかに、愛の一形態と(巷で)言われるセックスを通じても孤独を消すことができる。しかし、性的オルガズムを追求することはアルコールや麻薬に耽るのとあまり変わらない。

孤独の不安から逃れるためのセックスは絶望的な試みであり、それは往々にしてふたりの孤独感を深める結果となってしまう。なぜなら、愛のないセックスはふたりの間に横たわる暗い川に、ほんのつかのましか橋を架けないからだ。

「愛とは性衝動の表出である」というフロイト的解釈にフロムは反対している。

 

親子の愛

子が親から受ける愛は大きく分けて母性的愛と父性的愛のふたつに分かれる。

母性的愛とは母から与えられる無条件の愛のことであり、本人の特性や行動とは無関係に注がれる受動的な愛である。

父性的愛とは父から与えられる条件付きの愛のことであり、本人の行動に応じて与えられる能動的な愛である。

母性的愛によって人は自分自身を愛する能力、内的世界を充実させる能力を獲得し、父性的愛によって規律や服従、外的世界に順応する能力を獲得する。

 

人を愛するためには、自分自身を愛し確固たる自我を確立させるととも、自分とは違う独立した個人である相手を尊重する姿勢が必要であり、母性的愛と父性的愛の二つはその発育を促す役割がある。

 

自己愛

「愛は対象と自分自身との間のつながりだ」という原則からすると、己を愛することができない人に人を愛することなどできない。愛は対象に影響されて生まれるものではなく、自分自身の愛する能力にもとづいて、愛する人の成長と幸福を積極的に求めることである。

「汝がごとく隣人を愛せ」という聖書の言葉の裏にあるのは、自分自身の個性を尊重し、理解することは、他人を尊重し、理解することと切り離せないのである。

 

第三章 現代西洋社会における歪んだ愛

資本主義浸食しつくされた現代西洋社会において、多くの人々はマルクスの言うように、”イチ消費者"かつ"イチ生産者"としてしか扱われない人間疎外の状況にある。

その中で人々は孤独に怯え、孤独に気付かないようにさまざまな鎮痛剤を服用している。それは文字通りの鎮痛剤だったり、不必要で享楽的な消費活動であったり、誤った形の愛であったりする。

それは「チーム」という概念の結婚観によく表れている。これは資本主義社会における、部品としての個々人が作る共同体、というイメージに近い。

チームは互いの共通の目標のために、市場での公平な交換によって結成され、利己的な動機から相手が表明する欲求に合わせて行動する。こうした関係を続けていても、結局二人は生涯他人のままであり、「中心と中心の関係」にはならず、相手の気分を害さないように努め、お世辞を言いあうだけの関係に終わってしまう。

二人の人間が自分たちの存在の中心と中心で意思を通じ合うとき、すなわちそれぞれが相手の存在の中心において自分自身を経験するとき、はじめて愛が生まれる。

そうした経験に基づく愛は絶え間ない挑戦であり、そこは安らぎの場ではなく活動の場であり、成長の場である。

 

書評

「既婚者に渡すべき本ではないと思いますが…」

と言われ渡され読んだ本。

「セックスしないことが小さいながらも誠意だ」

という童貞みたいなぼくの姿勢を、本書でフロムは何度となく叩いていた。

頭から湯気が出るくらい恥ずかしくなったし、申し訳なくなった。